よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

やたらと写真撮影したがる人たち

あきさんが狂言を観に行ったところ、舞台をフラッシュ付きで撮影する人が多くて不愉快だったと書いていらした(http://sprighascome.hatenablog.com/)。それで、先日テレビドラマを見ていてとても不愉快なシーンに出合い、このことに一度触れようと思っていたことを思い出した。


それは、先々週から始まったNHKの『ボーダーライン』というドラマだ。ドラマ自体は今まで連続ドラマでは取り上げられることの少なかった消防署を舞台にしたもので、なかなか興味深かった。その第一回の「市民の視線」という話の中に、交通事故の現場に主人公たちの救急隊が駆け付けるシーンがあったのだけれど、心肺停止に陥っている子供に救急隊員が対処している後ろで、大勢の野次馬が手に手にスマホを掲げて撮影していたのだ。


もう何年も前、義兄が亡くなって葬儀に出席した折、同じく知らせを受けてやってきていた息子から、近頃の葬儀では棺の中の方をケータイで撮影する人もいると聞いて驚いた。さいわいというか、義兄の葬儀はそのような人は一人もおらず、しめやかに行われたが。

ドラマを見ていてその時のことを思い出した。また、近頃何か事件や災害が起きるたび、一般人の撮影した映像や画像がニュースに頻繁に登場することから考えても、このドラマのようなことは現実にあちこちで起きていることなのだろうと思う。先日の御嶽山の噴火などは、その映像が今後の研究に貴重なデータとなるかも知れない。

そうした研究や今後の対処の参考になるものがある一方で、おそらく大半は、興味本位で、撮影された側が知ったら傷つき悲しむであろうものなのではないだろうか。そうでなくても、事件や事故で人が大変な状態に陥っているときに、下種(げす)な根性でカメラを向けている姿には関係者でなくとも、ザラッと非常に不快感を覚える。まして関係者だったらどんなに悲しい気持ちになることだろう。


報道写真のコンクールというものがあった。今も行われているのだろうか。そのコンクールで賞をとった作品が新聞に掲載されているのを見ると、いつも私は少し嫌な気分になった。報道写真家というのは大切な仕事だけれど、因果な職業でもあることと思った。火事や交通事故の決定的瞬間、いわば一番悲惨な瞬間を切り取ったものが、良いとされるのである。

仕事であれば、心を鬼にしてカメラを向けねばならぬ時もあろう。キャパの戦場写真が多くの人に平和の大切さを教えたように、その一枚が社会に必要かもしれない。けれども、今は、一般人の興味本位、もしくはブログなどで自慢するためのものだ。


悲しい場面だけでなく、あきさんが味わったように、芸術や芸能を楽しみたい場面でも、場をわきまえない人たちの行為が興をそいでしまう。レンズを通した虚像の前に、なぜもっと自分の肉眼で楽しまないの?デジタルデータで保存する以上に、どうして自分の心に刻み込もうとしないの?



かつてカメラは大変に高価な物であった。大枚をはたいてそれを手にする人は、写真に対しそれなりの強い思いを持つ人だった。けれども、いまや誰もがいつでもカメラを所持している時代。いつ、どんな風に使うのか、そこにその人の人格も出てしまう。貧しいことは幸い。豊かになるとあらゆるところにおのれが出てしまう。気を付けなければ・・・。