よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

最後の女学生  

このところ戦争に関連したことばかり書いている気がする。去年の1月2月頃はパワーハラスメントに辟易して会社に辞表を出し、でも後任がなかなか定着しないため辞めるに辞められず、愚痴を書いたりしていたなんて信じられないくらいだ。いまや、それはもういつのことですか?という気分。

あの頃は自分のことで手いっぱいで、ニュースを見れば気にはかかるものの、実際には社会のことに気持ちを割く余裕はなかった。いまこうして私が戦争とか平和とかばかり論じていると、自分のことで手いっぱいで苦しんでいる人には、うっとうしいブログかも知れない。

まあ、別に嫌な人は読まなければいいことなので、ご勘弁願いたい。今の状況を考えると、口にしない訳にはいかない。私たち戦後世代がかつて大人たちに対して「どうして戦争に反対しなかったの?」という疑問を持ったように、いつか孫やひ孫に「どうしておばあちゃんたちは戦争に傾いていく流れを止めなかったの」と問われるようになることは絶対に避けたい。



今日は先日ご案内した戦争体験を聞く催しの日だった。「最後の女学生」というのは今日の講師の方が中心になって、豊川海軍工廠で動員学徒で働いていて空襲の犠牲になった同級生の方たちの50回忌法要の折に出版された本の題名だ。

1932年生まれの渡辺のり子(旧姓朝岡)さんが入学した小学校は豊橋市立狭間小学校(空襲で全焼し数年後松山小学校に統合されたので現在は存在しない)。卒業した時は狭間国民学校。そして豊橋市立高等女学校に入学し、学問する間もなく学徒動員で工廠で働き、終戦で学制改革になり豊橋市立高校、さらにもう一校が統合され、卒業した時は県立の東高等学校になっていた。だから女学校の生徒としては渡辺さんたちが最後、ということで、記念の本の題名になさったそうだ。

1931年から戦争が始まっていたので、生まれながらに軍国少女で、戦争に疑問を持つなど考えられもしなかった。12、3歳で大人と一緒に工場で働くことも当然のことと受け止めていた。

渡辺さんのご実家は豊橋駅前の眼科医院で、中心部であるため6月の豊橋空襲で焼けてしまった。家が無くなって学校(というか工場へ、だけれども)へ通えないので、静岡の親戚の家に疎開する、ついては工廠をやめなければならない旨申し出ると、「非国民だ」と言われたそうだ。

そんなわけで8月7日の豊川工廠空襲の時には疎開していたため、今私はこうしてここにいます、とおっしゃった。けれどもずっと生き残ってしまった負い目を感じて生きていらしたと言う。一緒に工廠にいながら紙一重の差で助かった同級生たちも、いちように、自分が助かったことに負い目を感じて生きていらしたそうだ。

助かった同級生の話のなかには、すぐ後ろで助けてと声がする。振り向くと髪をふり乱した女の人が手を伸ばしている。随分小柄な人だな・・・と思ってよく見ると、下半身がなかった、などという話もあるそうだ。そうした人を振り切って生き延びた、罪悪感に苦しめられたのだ。助かった人は多かれ少なかれ、そうした記憶を持っているのだろう。


イスラム国」で戦闘に加わりたかったと言う若者。「死ぬことは平気だ」と言う。冗談じゃない。自分が死ぬことより「殺す」ことのほうが苦痛なのだ。ベトナム戦争から帰国してPTSDに苦しんだ兵士たちは、おそらく自分が死にそうな目に遭った記憶より、自分が人を殺した記憶、死んでいく人を見殺しにした記憶に、より悩まされたことだろう。戦闘員でなくても、自分が生き延びるためには誰かを見殺しにしなければならない場面に遭遇する。それが戦争だ。




渡辺さんの母校では今年8月7日に平和祈念の式典を催した。そして今後夏休み中のこの日を全校出校日として、先輩たちの冥福を祈り平和について考える「平和祈念集会」の日とするそうだ。




せめて写真だけでもちょっと心の安らぐものを・・・。
新しい爪とぎに取り換え、マタタビの匂いも付けたからか、
珍しい場所でマッタリするオーガストです。


追記
今日のお話の中で印象的だった大切な言葉を書き忘れた。
”知らされない”ことに気付く。
”騙されない子や孫を育てる”