よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

今朝の『おはよう東海』

今朝のNHKニュースの中の『おはよう東海』(7:45からのローカルの時間)は名古屋放送局制作の「シリーズ平和を考える ⑵ "戦争遺跡を後世に"」というものだった。

先日私たち豊橋ユネスコ協会のメンバーで行った豊川海軍工廠を、豊川市が公園にして残す計画だということを取り上げた内容だ。実はあの見学の日、この番組のNHKのクルーにインタビューを受けたのだ。

戦争当時女学生だった姉上が、勤労動員でこの工廠で働いていて爆撃を経験された(幸い無事に戻られた)という年長のメンバーが、代表する形でインタビューに答えた。そのあとで私にもマイクが向けられたのだけれど、一人では申し訳ないと思われての付け足しで、どうせ使われることはないだろうと思っていた。

ところが今朝その放送を見たら、なんと私が答えた部分が使われていて驚いた。代表で答えたメンバーは、かなりたくさん話を聞かれたくさん答えた。もちろん相当短く編集はされるだろうと思っていたが、全く使われないなんて・・・。なんだか失礼な気がするけれど、テレビとはこうしたものか、とも思う。ある分野の専門家とか著名人でも、長いインタビューの部分部分をつないで、ご本人が意図したのとは違う印象の映像になったものを放送され、異議を表明なさったなどというニュースを目にすることもある。


ご当人たちは無意識なのかもしれないけれど、テレビ関係者は特権階級で、たいがいのことは許されると思っている節がある。昔まだ青森に住んでいた頃、我が家のすぐ近くに大きな神社があり、毎年その例大祭はローカルニュースで取り上げられた。だから大祭の日にはテレビ局が何社か撮影に来るのだけれど、神社に近くて広い庭のある我が家に「これは便利」とばかり報道の大きな車を停めるのだ。それでも、「すみませんが・・・」と一言断れば舅たちは了解していたけれど、時として断りもせずに置いて行ってしまうこともあった。その人たちは、テレビ関係者のすることならみな大目に見てくれると思っているのだろう。舅は挨拶する社には快く許していたが、無断の社の人には、帰りを待ち構えていて「いくら空いていても、親戚のものが来て必要になる場合もあるし、勝手に置いて行くとは何事」と叱り飛ばした。



彼らは一般人が受けたインタビューを使おうが使うまいが、またどんな形で使おうが、勝手だと思っているのだろう。あるいはインタビューを受けるということは、どう料理されようと一切意義は申しませんという了解のもとに受けるのが常識なのであろうか。最終形を確認しなくては納得できないのであれば、断わればよいのだから。今回はどう使われようが誤解を受ける心配のないものだったから良いけれど、今後(そうそうテレビのインタビューを受けることもないだろうが)は、場合によっては答えるかどうかよく考えることにしよう。



今日の放送は時間にすればたぶん10秒にも満たない短さ、あっという間だった。すぐには自分だと思わず、あれ、この帽子見覚えが・・・などと一拍おいて理解しているものだから、ますます訳分からず終わってしまった。いつもニュースの街頭インタビューなどを見ては、「この人のしゃべり方・・・」などと勝手な批評をしているけれど、果たして自分の話し方は合格点が付けられただろうか。冷や汗ものである。ま、誰の目にも止まってはいないであろうことが救いか・・・。