よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『真夏の方程式』東野作品?

テレビの2時間ドラマはがっかりすることが多くて、近頃あまり見る気にならないのだけれど、映画ならもう少し満足できるのではないかと期待して、昨夜ガリレオシリーズの映画最新作、地上波初登場というのを見た。

端的に感想を言えば、2時間ドラマと大差なかった。海が舞台なので海中のシーンなどはきれいだったが、ストーリーも軽く、出演陣も映画じゃないとなかなか見られないという人もいないし、わざわざ就寝時間を繰り下げてまで見たことを後悔した。

『容疑者Xの献身』はストーリーも良く、また容疑者X役の堤真一さんの迫真の演技にも魅了されたので、今作もテレビシリーズとは違って質の高いものが・・・と思ったが、前作とはかなり出来が違っているように感じた。

唯一の救いは、キーマンの少年が可愛かったことと、本来子供嫌いの湯川先生がなぜかその少年には優しくて、二人のやり取りのシーンがとても微笑ましくて良かったことだ。

東野作品は、原作は良いのにテレビドラマになると残念な作品になってしまうことも多いけれど、この話はそもそも事件の動機が弱すぎるし、中心になっている家族の秘密も少々時代錯誤で使い古された陳腐なテーマなので、おそらく脚本化の段階の問題ではないような気がする。

人気が出て、ドラマや映画になったり、ましてシリーズ化などされるとどうしても量産の傾向が出て味わいが薄くなってしまうのかもしれない。だいたい「物理学を使って事件の謎を解く」などというお話が、そうそうじゃんじゃん作れる訳はなかったのだ。いくら理系の東野さんと言えども・・・。




かつて推理小説をけっこう読んだ時期があって、しかも一人の作家の作品が気に入ると続けて何作品も読んだ。そうして気づいたことは、ほとんどの作家が、売れっ子になると量産になって作品の質が低下する、ということだった。人気が出てからも、初期の作品と同じレベルの質の作品を書き続けている人はとても少ない。

もちろん作品によって多少出来の良し悪しがあるのはしかたがないけれど、売れっ子になって、作品がドラマ化や映画化されるようになるとたいてい質が落ちる。ある作家のシリーズ化された作品の中には、文体などから明らかに口述筆記させたものだと分かるものさえあった。

それでも世間の人気は高いのか、音訳ボランティアをしている頃よくそうした量産と思われるような作品が手元に来て、気分屋の私はそういう本の時は音訳のモチベーションが下がって苦労した。


洋服ならば試着できる。食べ物は全てではないけれども試食がある。本は店頭なら手に取ってある程度中を読むことができる。でもテレビドラマや映画は試聴できない。予告編というものはあるけれどもこれは往々にして似て非なるものであったりする。つなぎ方次第でこうも印象が変わるかとびっくりすることもあるほど、たいていにおいて予告編はうまく「出来過ぎている」。

で、見終わって「時間を損した・・・」と思うことも少なくない。料金を払ってみる映画ならばお金も損したと思うことになる。

でも、以前次男と映画談議をしたとき、彼はつまらないと思うような映画でも、ワンシーンでも心に響くシーンがあったり、いいなと思えるセリフがひとつでもあれば、それで十分じゃないかと言った。鷹揚な次男らしい意見だと思った。少々自分に甘い息子だが、その分人に対しても寛大だ。少しばかりストーリーが破たんしているの、言葉遣いがオカシイのと、いちいちツッコミを入れて、あげく「見てられない!」と短気を起こす私の狭量さとはえらい違いだ。そう思っても、私の狭量さや短気さは年を取るほどに強まってくるようだ。

困ったことだ・・・。