よんばば つれづれ

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「被爆語り部に暴言」のニュースで考える

「長崎の被爆語り部に、横浜の中学生が暴言を吐いた」という朝日新聞の記事について、さらにあちこちで様々な方々がいろいろ論評している。私もユネスコ平和教育出前授業の一員として活動しているので、他人事(ひとごと)と片付けられない。

私たちの授業の対象は、社会科で戦争について勉強する小学校6年生だ。実は私も初めて参加するときは、子供達がちゃんと聞いてくれるだろうかと心配だった。かつて小さな塾を経営して子供達と接していたとき、青森県の片田舎で大半の子は素朴で素直だったけれど、中には、小学校5、6年生でもすれて扱いにくい子もいて、苦労した記憶があったから。

出前授業には昨年秋から参加して、学校内で5校、公園で2校の、のべ7回6年生と接したけれど、予想以上に子供達は真剣に聞いてくれて、態度の悪い子は全く目につかなかった。特に11月下旬ころの授業では、暖房の入らない冷える学校の床に座って聴くのは、結構大変だろうと思ったが、感心するくらい集中力を持って聴いてくれた。

あとで学校側がまとめて、私たちにお礼を兼ねて下さった感想文集を読むと、人の文章をそっくり真似したいい加減なものや、投げやりな書き方のものも多少は見られた。けれども私は、そもそも出前授業の感想文を書かせることが望ましくないと思っている(学校側にすれば私達に対する礼儀と思って書かせているのかもしれないけれど)。

出前授業の内容についても、私たちメンバーは、出来事や、当時の社会がどんな様子で、どんなものを食べていたかなどを伝え、こちらの主観が極力入り込まないように注意している。教科書だけでは分からない情報を伝えて、それらをどう受け止めどう考えるかは子供達にゆだねたいと考えている。


中学生ともなると、難しい年頃であり、こうした教育はかなり神経を使わなければならないだろう。修学旅行の一行程でのことらしいが、旅行の事前学習などはどのようなものだったのだろう。

そもそも修学旅行という行事が、現代の学校教育で必須のことなのだろうか。以前から私は疑問に思っている。家族旅行など考えられもしなかった貧しい時代には、修学旅行で歴史の重要な舞台となった土地や代表的な観光地を訪れることに意味があったかも知れないが、かなりの費用と、教師の多大な負担をかけて実施するだけの価値があるのだろうか。

「修学」旅行であるのだから、建前としては学習のため、なのだろうけれど、生徒のほうは「旅行」気分で、少々はしゃいだ気持ちだったかも知れない・・・。現場に居合わせた訳ではないから、雰囲気や状況は分からない。

今回ユネスコフォーラムの開催を記事にしてもらおうと、当地の新聞社数社に会長が当たったところ、経費節減でどこも人員が減らされて地元地方紙以外、訪問者に対応する担当者はいなかったそうだ。そうした厳しい状況の新聞社が、今回この記事をどこまで細かな事情を掴んで書いたのかも不明だ。

報道を信じれば、確かに生徒たちの言動は望ましくない。でもどのような経緯でそうした暴言が出るに至ったのだろう。戦争の犠牲になられた方に心を寄せるのは人として当たり前だけれど、そうした気持ちを当然のように求めてしまうことには注意深くありたいと思う。大人が思う以上に、子供達は鋭く物事の本質を掴んでしまうし、本音と違う建前を言っている大人も敏感にかぎ分けてしまう。



経験を重ねることでうまくなっていくこともあるだろうけれど、気持ちの大切な部分で失っていく、忘れていくこともあるかも知れない。常に謙虚に反省し、決して押しつけがましい授業にならないよう注意したい。このニュースを他山の石に、と心に刻む。