よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

「半分あきらめて生きる」

内田樹さんが標題のエントリを書いていらっしゃる。ある教育関係の媒体から「あるがままの自己を肯定し、受け入れるためには、上手にあきらめることも必要なのでは。閉塞感漂う現代社会でどう生きていけばいいのか」という趣旨の原稿を依頼されたのだそうだ。

そんな依頼が来たのは、どうも以前学校教育について論じた中で、内田さんが、「教師のたいせつな仕事のひとつは子供たちの過大な自己評価を適正なレベルにまで下方修正することにある」と書いたことがあるかららしいとのこと。

そこまで読んで、私はてっきりこの頃しきりに私が思っていることと同じような話が展開されるものと思って読み進んだ。ところが今回の内田さんの論旨ははるかに壮大かつ高邁な内容だった。

昨日ちょっとふれた個性の話と繋がるし、たぶんこのブログで今までにも書いていると思うけれど、近頃どうも家庭でも教育の場でも、子供を尊重するあまりオンリーワンを押し付けて、かえって子供たちを息苦しくさせている気がしてならない。まずはまっとうな大人を育てるのが、親、教師、社会の大人たちの務めだと思う。「型にはめるのは良くない」としきりに言われた時期があって、親も教師も臆病になってしまった。

でも型にはまらない子は、型にはめようとしたってはまらないのだ。そういう子は大人のちょっとした圧力で型にはまるくらいなら、最初から苦労しない。またどうしても型からはみ出してしまうほどのものを持たない子にとっては、「自由に生きていいんだよ」と言われることは結構シンドイことだったりする。そうして広野で道しるべを見失って立ちすくんでいる若者たちが少なくないのではないだろうか。

そんなことがこのところしきりに思われてならないのだが、内田さんのこの話は今の社会秩序が崩壊してしまうような人類の危機的状況で、その社会を支えうるような力を持った傑出した「真の才能」の話だ。



自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。どのような破局的場面でも揺るがぬような確かな思想的背骨を求めつつ同時に「富貴」であることはできないからである。


と、実に大きな視点からの「半分あきらめて生きる」話だ。しかし大半の子供はどちらにも属さない「普通」の子供ではないだろうか。つまり平時でも「費用対効果のよい生き方」を探すことさえうまくできない。え?そういう子はいったいどれだけあきらめて生きるのだ?


内田樹さんのサイトはこちら(読み応え有りです)