よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『余韻を聞く』白洲正子著

我が子の入学式に参加するため、自分が担任する生徒の入学式に有休をとった教師のことがネットで話題になっていた。今年中学生になった私の孫の入学式は、息子のところでは母親のみの出席だが、両親はおろか祖父母まで参列する家庭も珍しくなかったそうだ。大学の入学試験では付き添いの親が増え、保護者の控室を用意する例もあるらしい。

そういえば私が高校生だった時、京都大学の入試を終えて戻った友人が、「寒いのに試験会場の外で待っている親もいたよ」と話すのを聞いて、その場にいた全員(男女7人ほど)が「うへっ、信じられない!」という反応をしたことを思い出す。そういう甘い親が出現し始めたのがあの頃だった。大学紛争のあおりで東大の入試が中止になった翌年のことだ。

いまや入学式に限らず、子の行事にはへたをすると社会人になってからまで親や祖父母がぞろぞろと参加し撮影機器を向け、それが愛情のしるしであるかのようになっている。

ちょうど読み終えた白洲正子の『余韻を聞く』に、そうした風潮に一石を投ずるような気のする箇所があったので紹介したい。



昔、私の友達が、ふとつぶやいた言葉を思い出す。彼女は大変美しい人で、銀座のバァのホステスをしていた。同じバァの同輩の一人が、その日弟を山で失った。偶然私はそこに居合わせたが、大勢の客の中で、半狂乱で泣きわめいている。無理もないことと同情したものの、さりとて慰めようもない、みんな滅入った気分になって、盃をもてあました。その時私の友達が独り言のようにささやいた。「あの人、冷酷な人なのね」。私は虚をつかれて、はっとしたが、今こそはっきりわかるような気がする(この話は、前にも一度書いたことがあるが、その時は半信半疑であった)。そんな際にも、彼女は見失わなかったのだ。感傷と、深い悲しみが、まったく別なものであることを。



さすがに審美眼の鋭い方の文章である。言葉の選び方の的確さ、無駄のない文であることはもちろんのこと、心をとめるところも違う。四季折々の行事や気に入っている骨董道具、親交のあった人々について綴る。著者の文章にちなんだカラーやモノクロの写真も入って、読んでも眺めても楽しく美しい。唯一残念なのは、製本が悪いのかあるいは不特定多数の利用者の扱いが乱暴だったのか、本の三分の一ほどの部分がページが今にもバラバラになりそうで、読むのにとても気を使わなければならなかったことだ。

文章が美しいと定評の須賀敦子さんの『ミラノ霧の風景』を先月読んだのだけれど、校正はされているのだろうかと思うほど間違いが多かった。いや、校正の問題だけではない、言葉の使い方が明らかにおかしいところや主述が呼応していないところもあって、気になる箇所に付箋を付けていたら20以上もついてしまい、いっこうに文章に浸れないまま期待外れの読書に終わってしまったが、今回の読書はとても満足のゆくものだった。





姫リンゴの花が咲いた。
去年台風の風で大きな鉢がひっくり返り、起こそうにも太い根が鉢をはみ出して大地にまで張っており、不安定で起こせない。
仕方なく死んでしまうのを覚悟で鋸で根を切った。
枯れるかな、枯れるかな、と心配しながら見守っていたら、
冬の間に新芽をはぐくんでいるのを見つけほっとした。
いのちとはなんとたくましい。
切り離された根っこのほうからも新しい木が伸びているのである。