よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

「まちの居場所づくり」大学へ行って来た

市の長寿介護課と愛知大学地域政策学部地域政策学センター主催の催し。ひと月ほど前に広報と一緒に告知の回覧用リーフレットが届き、以前から興味を持っていたことだったので参加の申し込みをしていた。

今日はあいにくの雨と風だったけれど、午後から雨が少し小降りになったのは救いだった。地味な企画なので参加者は少ないだろうと思っていたのだが、悪天候にもかかわらず大変な盛況であらためて高齢者パワー(関係する学生を除くとたぶん参加者の平均年齢は70前後になるのでは?と思われる)を痛感した。

私は20年くらい前から高齢者の集う(うまくいけば子育て世代も巻き込んだ多世代のための)憩いの場所みたいなものを作れないかと考えていた。けれども当時はまだ生活のために働かなければならない立場だったので、始めるからにはそれで家族が食べていけるものにする必要があった。それはなかなか難しいことなので、実行することはできなかった。

けれども今なら赤字にさえならなければいい。団地の集会所を利用してお茶の時間を持ったりするくらいなら、結構すぐ実現できそうではないかなどとも考えていたので、この企画はまさに渡りに船という感じだった。

すでに市内に14か所も「まちの居場所」「コミュニティカフェ」といったものがあるそうだ。ずっと関心を持ってきたことだったのに、まったく知らなかった。やはりフルタイムで働いていると、気を付けていたつもりでも地域の活動の情報などから距離ができてしまうのだろうか。

14か所の大半が地域の集会所や市民館といった公的な場所を利用している。利用料も無料とかせいぜい300円くらいのものが多い。スタッフはボランティアというのがほとんどだ。けれども今日の講師の一人で富山から来た29歳の若者は、株式会社の形でコミュニティカフェをしているそうだ。始めたころはやはり経営が大変で、自身が夜間コンビニや建設現場でアルバイトしてやりくりしたと言う。政治の世界で発言権を持つことも必要だと思い、県会議員にもなってしまったという行動派の頼もしい人物だった。いくらも年齢の違わない学生たちにとっては、いい刺激になったのではないだろうか。

あさってから消費税は8パーセントになり、その増収分は社会保障に使われるはずだけれど、特養の待機高齢者が何十万人とか問題にもなってきている昨今、従来の高齢者対応を続けたのでは、たとえ来年また10パーセントに上げたとしても追いつかないだろう。

超高齢社会が大問題だと、長生きは社会のお荷物と言わんばかり(いや、言ってる)の言葉が耳に入らない日はないが、数十年前の高齢者と今の高齢者とではまるで状況が違う。国民の半分以上が第一次産業や自営業者だった昔は、十分な年金ももらえずもちろん退職金もない高齢者が大半だった。けれども今や夫婦ともに厚生年金をかけてきた人たちなど、現役世代より潤沢な収入があるだろう。健康面でも90歳100歳で様々な分野の現役でバリバリ働いている方も少なくない。高齢者イコール弱者という従来の考えは捨て去ったほうがいいと思う。

今日の講座には百人を超える高齢者が集まっていたが、「まちの居場所」に利用者として参加したくて情報を取りに来ている人はおそらくほとんどいなかったと思う。みんな何かしら役に立ちたい、力を出すほうに関心がある人たちだっただろう。市と大学のこの取り組みはとても時宜を得たものと言える。

これからは老人だからとか障害があるからとひとくくりに「可哀想に、福祉で面倒見ましょう」ではなく、力のある人にはどんどん世のため人のために働いてもらいましょう。年を取ること障害があることはとかく「不便」だけど「不幸」ではない。なるべくハンディキャップのある人も不便を感じない社会整備をして、そのうえで能力のある人には社会のために働き、可能であれば税金も納めてもらえばいい。

基本として人は自分の足で立たねばならない。それが一番自由でもあり生きがいの感じられることだと思う。政治は社会的整備が足りないためにそれができないということがないようにする。それでも不便なハンディを持つ人には、周囲の人が当たり前に手を貸す社会でありたい。そうしたことをしてもどうにもならない苦境にある人は、社会保障の力で救う。

政治の力がなければどうにもならないことも多いけれど、とりあえず自助努力で解決していけることはひとりひとりが一歩を踏み出せば、世の中は少し変わるのではないだろうか。今後も関連した催しの企画もあるようなので、それにも参加して今の自分に何ができるか考えようと思う。