よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

雪害ニュースに思うこと

このところの雪のニュースを見ていると、青森で暮らした冬を思い出す。坂道の交差点には道路わきに小さな祠のようなものが設置されていて、その中に砂の袋がいっぱい入っていた。スリップしたとき滑り止めに使うためだ。

でも雪になれた地元の人たちはほとんどそれを使うことはない。交差点のずっと手前の坂にならないところで停車する。先行車について止まるときはいいのだが、私が先頭で赤信号になったときうっかり通常の停止線で止まってしまったことがあった。信号が青になってもツルツル滑って発進できない。焦っていると、後ろのほうで止まっている車から数人のドライバーが下りて来て私の車を押してくれて切り抜けられた。その後もこうした好意に何度も助けられた。

ある夜はお酒を飲んだ夫に代わって運転していたところ、除雪でできた道路わきの雪の小山にスリップして突っ込んでしまった。タイヤは空回りして前にも後ろにも進まない。あまり交通量の多くない道で途方に暮れていると、運よく通りかかった車が止まってくれて、ドライバーの方が車体の下にエアバッグを入れ膨らませて車体を持ち上げる道具とスコップを自分の車から持って来て、ササッと手際よく作業して救い出してくれた。

私たちはといえばそうした道具の準備もなくただ恐縮してわきに立って見ているしかできず、まるでその方は正義のヒーローのように眩しかった。

この話には後日譚があって、春になって雪が消えるとその小山の中から、取り替え用に準備されていたと思われるコンクリート製の電柱が現れた。もう少しスピードが出ていて深く突っ込んでいたら車も傷ついただろうし、もしかしたら衝撃で私たちも怪我をしていたかもしれない。

この他にも、幸運としか言いようのないほんのちょっとしたタイミングのずれに救われたことが何回もあって、おかげで私は今もこうして生きている。悪運が強いのか、早くに亡くなった兄が守ってくれているのか・・・。

今回は普段あまり雪が降らないところに大量に降ったため被害や混乱が大きくなったのだが、近ごろは暑さといい雨の降り方といい異例ずくめ。少しでも降雪の恐れがあったらやはり備えをしっかりするべきだろう。お金もかかるけれど、医療と同じでたぶん問題が起こってから対処するより、予防のほうが結局安上がりなのではないだろうか。何もないのが一番いいには決まっているけれど。

青森に暮らすようになって初めての冬を迎えるとき、私はちょっとワクワクしていた。めったに雪の積もることなどないところで育った私にとって、雪はロマンチックなものでしかなかった。そんな私に舅は「雪が積もったら子どもたちを絶対に軒の下に立たせるな」と言った。屋根の雪が落ちて来て運が悪ければ死ぬこともあるからと。「きれい!」でしかなかったツララも殺人凶器になることを知らされ、雪国では雪も氷もただロマンではすまないことを教えられた。車に不用意に素手で触るとくっついて取れなくなることもあるから、子どもたちに言い聞かせるようにとも言われた。

自然の前には人間の力はまだまだ小さい。けれども経験や知恵を活用して防げることは防ぎたい。車のトランクにタイヤチェーンだけでなく、スコップと雪道脱出用の道具を積んでおくことぐらいはそれほどお金もかからず簡単なことだと思う。