よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

漱石的”的”の考察

夏目漱石の『自転車日記』という短編を読んでいたら、「出し抜に後ろからSir!と呼んだものがある、はてなめったな異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーッと立っている」という表現に出合った。1988年11月発行のちくま文学の森11巻で、現在のように「・・・的な」などという「的」の用法がまだあまり発生していないころだからか、この「的」に注を付けて「ほど」と説明を付けている。

日頃から「ボク的には・・・」に代表されるような「的」の使い方に違和感を抱いていた私はびっくり仰天。な、な、なんと、漱石先生がすでに明治36年発表の作品にこんな「的」を使っていたとは!この少しあとにも、「自転車の巡査におけるそれなお刺身のツマにおけるがごとき(中略)このツマ的巡査が声を揚げてアハ、アハ、アハと」とまた「的」が登場した。

漱石の作品では漢字の間違いなども珍しいことではなく、しかもあえてその字を選んでいるらしいふしもあるということなので、この「的」も「サプライズ」を狙った使用法かもしれない。この短い作品にも「怪気炎→汗気焔(この字の旧字)」や「途端→塗炭」といった洒落を含んだ文字の置き換えが見られる。

これだから言葉を論ずるのは難しい。ただ、言葉に対する感覚の鋭い人が考えに考えて選び取った表現と、なんの選択もなく周りに流されて使う表現との美しさの違いは歴然とあるように思う。その違いを感じ取るセンスは、美しい言葉、良い文章にたくさん触れることしかない。英語をシャワーのように浴びることも大切かも知れないけれど、まずはしっかりとした母語の土台を作ることなしには何も始まらない。

子どもには美しい詩や文章を暗誦させたり、難解で意味が分からなくても響きの美しい唱歌を歌わせたりすることはとても大切なことだと思う。我が家は正月に家族そろって、遊びに来ている客があればお客さんも一緒に、必ず百人一首をした。テレビなどない時代には正月三が日は暇さえあればみなでしていた。父が好きだったからだが、末っ子の私は物心もつかないころからそれを聞いていたわけで、自分の国語好きのルーツはそこにあるのかもしれないと思う。




アタシ的には、とにかくこのケーキが気になる・・・ミタイナ。