よんばば つれづれ

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モーム著『人間の絆 上・中・下』

秋の夜長は読書とブログ

人気作家サマセット・モームの自伝的小説です。それまでの彼の作品とはおよそ作風が違うのですが、どうしても書かずにはいられなかったようです。出版当時はあまり評判はよくなかったのですが、だんだん世の中に受け入れられるようになって、今ではモームの代表的作品のひとつとなっています。

主人公フィリップ・ケアリは9歳にして父と母を相次いで失い、厳格な聖職者の伯父夫婦に引き取られます。ずっとのちになって伯母は冷たい人ではないということが分かりますが、子どもを持ったことのないこの夫人は内向的なフリップとの接し方に戸惑っていたようです。

フィリップは神学校に進みますが、生来の足の障碍のためいじめられがちです。神様に自分の足を治してくれるよう熱心に祈り続けますが願いは入れられず、徐々に信仰心を失います。オックスフォードに行けという伯父の薦めに逆らってドイツに留学し、会計士として働き始めますが全くその仕事が好きになれません。小さい頃から絵の才能を褒められることが多かったため、画家を志してパリに行きます。そこで画学生仲間や詩人と知り合い、美や芸術について語り合う青春を送り、年上の婦人と恋愛のようなものも体験します。そして彼の人生に深く関わることになる性悪女のミルドレッドとも出会います。

自分には平凡な才能しかないことに気付いて絵の勉強を断念し、イギリスに戻って医学の勉強を始めます。途中ミルドレッドへの恋で無残に傷つき、おまけに非常な散財までして学問を続ける資金が底をつき(戦争下の不安定な経済状況の中、株の投資で大きな損失をこうむるという不運も重なった)、死ぬことも考えるホームレス生活に落ちます。

フィリップの危機を救ったのは、医学校で助手として診た患者のアセルニーという男でした。9人の子どもを抱え決して裕福とはいえない暮らしながら、妻も子供たちもみなフィリップが大好きになり、いつも温かく食事のテーブルに彼を迎えました。自分の勤める会社に何とかフィリップの働く口も見つけてくれます。

その後もフィリップの状況が何とか落ち着いたと思うと運命の女ミルドレッドと再会します。利用されるだけなんだからほっとけばいいのに、と読んでいる側は思うのですが、そういう女だと分かっていながら、彼はどうしても彼女を助けずにはいられません。

(このあと結末まで言及しています)



仕事もフィリップのデザインの力が認められ上向き始めるのですが、やはり彼は医者の道に戻りたく伯父の遺産が入るのを心待ちにします。やがて復学できる日が到来し、フィリップは30歳近くなって晴れて医師免許を獲得します。

医者としての仕事を始める前に、いよいよ長年の夢だったスペイン旅行を実現するぞというところで、アセルニーの長女サリーが彼の子どもを身ごもったらしいと告げます。その直後は自分のしたことの愚かさを激しく悔やみますが、まもなく彼は悟ります。スペインなどに旅行することよりも、サリーと作る平凡で温かな家庭のほうがどんなに価値があることかと。


作品を貫いているのは人生の不条理さです。殆どの登場人物が自分の思っていたのとは違う生き方を余儀なくされ、嘆いたり悲しんだり苦しんだりします。人生とはいったい何なのだ、とフィリップは問い続けます。パリで知り合った年長の詩人は「人生とはペルシャ絨毯のようなものだ」と言い、フィリップはその意味を考え続けます。

そうして彼はたどりつくのです。「人生に意味などない」という答えに。それは決して人生を否定的に見ている言葉ではありません。人生には意味などなく、失敗も不幸も、絨毯を織り成す模様のひとつにすぎないのだから、ことさらに嘆く必要もないということなのです。そして人生に意味や目的を求めるあまり、人間は不自由になっているのではないかと言っているようです。

ナンバーワンよりオンリーワンとか、自分探しとか、とかく人生に特別な意味がなくてはいけないような言葉のあふれるこの頃です。子どもの数が少ないぶん、親の子に対する期待も大きくなりがちです。幸せな時代だとも言えますが、反面こうしたことが生きるための重荷になっている場合も多いのではないかと心配です。そういう重苦しさを感じている若い人に、ぜひ読んでもらいたい本です。大長編ですが、「上」をがんばって読み通せば、あとはグングンおもしろくなって、読み進まずにはいられなくなります。

最後に「絆」という言葉、近頃はもっぱら「つながり、えにし」という意味合いですが、この題名は原題が『OF HUMAN BONDAGE』であることからも分かるように、縛り付けるものというような負の意味合いを持っていると思います。

ミルドレッドが登場するたびにハラハラして、もうこれ以上フィリップを苦しめないで!と祈る思いでした。ノラも素敵な女性でしたが、家族の縁の薄かった彼だけに、結果的には大家族の娘サリーと結ばれて、「フィリップ、本当に良かったね」と思いました。穏やかで温かい終わり方で、長い読み応えのあった本を私はとても晴れ晴れとした気持ちで閉じました。