よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『箱入り息子の恋』を観ました(ちょっとネタバレです)

冷房の効いた映画館に出掛け、今日封切りの『箱入り息子の恋』を観て来ました。くすっと笑えてほのぼのする映画でした。いちばん気に入った点は「障害者もの」のお話にしていないところでした。

主人公の健太郎が、目の見えない奈穂子と公然と笑いものにされている自分とどう違うのかというような気持ちで奈穂子をまっすぐ一人の女性として見ている視線が映画全編に貫かれていて、それがとても気持ち良かったです。お見合いの席で相手の父親に侮辱された健太郎が、「(お嬢さんに)同情しろということですか」と言った場面は胸がすく思いでした。ものすごく娘を大切にしているみたいな父親が、実はいちばん哀れんでいるのではないか、という鋭い指摘に聞こえました。対人恐怖症のような彼が初対面の相手にあれほどのことを言えたのは、自分が侮辱されて腹が立ったからではなく、父親の言葉の陰にハンディを持った娘に対する無意識の哀れみの意識を感じ取り、そのことに憤ったからこそではないかと思います。

二回目の吉野家の場面は泣けて笑えるシーンでした。こういうところで描かれるのは他のどの牛丼屋さんでもなく、なぜかやっぱり吉野家がぴったりです。また健太郎が二回目の入院のときに、病室のベッドの上で一所懸命に点字を打っている姿もとても良かったです。障害者と恋をしたから・・・という悲壮感がなく、ただハンディがあるとちょっと不便だよね、でも愛があればそんな不便も全然平気で乗り越えられるねっていう感じがとても伝わってきました。

親はとかく子どもを案ずるがゆえに規制してしまいがちです。でも健太郎が危ないことも無理もせず怪我とも無縁で(二回も入院したりせず!)100歳まで生きたとしても、心を熱くしたりせつない思いをすることもなく、ただひたすらひとりでゲームをしてカエルに餌をやって生きる人生で、愛する息子は幸せなのか。バリバリ仕事をしてお金を稼ぎ目が見えないことで起きる不便もお金でどんどん解決してくれるような頼もしい伴侶を見つけても、その人と本当に心が通わなかったら愛する娘は満ち足りた人生を送れるのか。親自身の価値観でなく、真に子どもの立場で子どもの幸せを考えるのは案外難しいことかも知れません。でもやっぱり順序で行けば親は先に死ぬのだし、人生を生きていくのはその子自身なのですものね。

感動を盛り上げるように作っていないし、ストーリーは漫画のノリでご都合主義な展開もあるけど、すなおに「気持ちの合う人と一緒に生きられたらヨシギュウも2倍おいしいね」っていう映画です。