よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

ダッコチャン、フラフープ、ツイギー

昨夜の東芝日曜劇場『母。わが子へ』、いいドラマでした。私自身も二人の息子を女ひとりで育てたという状況も似ているので、余計に感情移入してしまいました。それにしても長男が仲村トオルさん、次男が玉山鉄二さんとは、なんて贅沢なお母さん!

2年前の津波で家を流されてしまった八千草薫さん演じる姑に、長男の嫁が「土地はあるのだからまた戻れば・・・」と慰めるシーンで、それに応えた八千草薫さんのセリフ「だってふるさとって、人なのよ」という言葉がとても心に響きました。被災地から遠く離れたところに暮らす者はともすると、復興しさえすればと思ってしまいますが(実はその復興すらまだまだまるでなってないのですが)、どんなに復旧復興しても元には戻らないものの大きさ深さを思い知らされるような鋭い言葉でした。

いつもそばにあるはず、いるはず。あって当たり前と思っているものが、人が、ある日突然消えてしまう。失くして後悔する前に、ちゃんと大切にしましょう。やりなおせるものは、意地を張っていないでさっさと謝ってやりなおしましょう。なんでもないようなことが実はとっても貴重で大切なこと・・・と気付かせてくれるドラマでした。


ひとつだけちょっと気になったこと。八千草母さんがトオル長男に父親との出会いを尋ねられて応えた言葉の中に「ナンパ。流行のミニスカートをはいて出掛けた街で声を掛けられたの。ダッコチャンやフラフープが街に溢れていたわ」というようなセリフがありました。八千草母は何歳の設定なのでしょう。少なくとも70代でしょうから娘時代にミニスカートの流行があったのか?そしてそれ以上にひっかかったのがダッコチャンとフラフープとミニスカートの女王ツイギーが同時期のものとして語られたことです。

ダッコチャン、フラフープの大流行の時私は小学校低学年、ツイギー来日の時は思春期でした。大人になってしまっていれば殆ど同じ時期と感じる程度の時間差かもしれませんが、私にとってこの時期の何年間かはとてもいっしょくたにできない長い長い時間です。それだけによけい強く違和感を感じてしまったのでしょう。同じ枠の前クールドラマ『とんび』でもせっかく良質の作品でしたが、時代考証が少し甘くて残念なところがありました。今はインターネットでも大抵のことは簡単に調べられる時代なのに、なぜ大切な時代背景をおざなりに片付けるのでしょう。「神は細部に宿る」とさえ言います。引き込まれて集中していた意識にふっとしらけたものが流れてしまいます。

大勢の人たちで作っているのでしょうに、漢字の読み違え、敬語や言い回しの間違い、こうしたちょっとした時代背景の矛盾や物事の流れの不自然さなどを指摘する人が独りもいないのか、それとも脚本には誰も異を唱えることができないものなのか、いつもこうしたことが不思議に思えてなりません。現場の人皆が「良いものを作りたい!」と思っていれば解決できることのように私には思えるのですが・・・。