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よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

な、かな、のかな

前から気になっていた言葉遣いです。初めはテレビに出ている人が言っているのを聞いてあれ?とひっかかり、そのうちあの人もこの人もどんどん使うようになり、今は自分の周辺でもしょっちゅう耳にするようになりました。


僕らが一生懸命がんばることで、少しでも勇気を与えることができればいいかなと思います。


一日でも早く元気になればいいかなと思っています。


これを言った人たちは、勇気を与える(これもひっかかる表現ですが)ことや元気になることが「いい」と自信を持っていないのでしょうか?「もっといい」ことがあるかもしれないと思っているのでしょうか?たぶん、そうではないでしょう。話の前後の脈絡から考えても、明らかにそうなったら「いいな」という気持ちだと推察できる場面で、いまや多くの人が「いいかな」と使うのです。

私の認識では、「・・・な」は願望、「・・・かな」は疑問(短歌などに使われる詠嘆の場合は別にして)を表す助詞です。

世界中が平和になるといいな、は願望。
世界中が平和になるといいかな、は疑問。いいかな?良くないかもしれないな、というニュアンスを感じてしまいます。それで、明らかに願望であるべきところで「かな」と使われると違和感を感じてしまいます。

近頃ではさらに「のかな」も頻繁に使われるようになって来ました。


一日でも早く元気になればいいのかな、という具合です。

この表現は更にあいまいで、願望とか疑問といった自分の直接の気持ちではなく、第三者の思惑を計っている言葉のように私には聞こえます。「・・・いいのかな、それでお気に召します?」と。

丁寧に聞こえる、へりくだって聞こえる、あいまいで言質をとられにくい、こうした言い方が現代では好まれます。「・・・のほう」しかり、「・・・みたいな」しかり。そして「させていただく」の大氾濫。

正しいとか間違っているとかではなく、気持ち悪い、落ち着かない、そういう感じです。味覚の鋭い人が毎日ジャンクフードを食べさせられているようなもの、でしょうか。見たい番組でも、出ている人の言葉が気持ち悪くて見られなかったり、ナレーションが気になって見続けられなかったりするのです。いまやパンデミックの時期に入ってしまって、日本語の崩壊はもう止められないようです。文部科学省は小学校から英語を必修にはしても、日本人の日本語力の危機はまるで問題にしていないようですしね。

会社でも日々気持ち悪い日本語の大見本市です。「やらさせていただきます」「これからも大いにご利用してください」「とんでもありません、とんでもございません」エトセトラ、エトセトラ・・・。

私はこうした現象が洪水のように広がるばかりの毎日に気持ちが萎え、いちいち取り上げる気力もなくなりそうですが、治納由気さんの「ちゃんとしゃべれ」のサイトでは、実に根気よく注意喚起をし続けてくださっています。なぜおかしいのかという点も細やかに教えてくれます。テレビ関係者や、影響力のあるインターネットサイトの製作者にはぜひ読んでいただきたいものです。

お金をかけなくても、テレビの台本やニュースの原稿(緊急のものは仕方ありませんが)など、ボランティアで言葉のチェックをしてくれる人材はいくらでも集まると思います。実際私が以前関わっていた音訳ボランティアにはそうした人たちがたくさんいました。でも、そんな時間を掛ける気はテレビ界にはないでしょうね。

気持ち悪い母国語の洪水の中を、無力に流されていくしかない・・・のかな?(誰か、そうじゃないよと言ってほしーーーい!)