よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

10円玉と同い年でした

10円玉は昭和26年生まれなのだそうです。今年でちょうど60年。昭和33年までは周囲にギザギザのある、いわゆる「キザジュウ」だった。それが32年に100円玉ができて、当時一番高額な硬貨には周囲にギザギザをつけるという決まりがあったので、それに従って100円硬貨につけたところ、10円と同じ大きさだったので間違いやすく、10円のほうはギザギザがなくなったという訳です。10円玉が生まれてからたった6年で100円硬貨が生まれているところに、なんだかその頃のお金の価値のなくなり方がうかがえるような気がします。

今でも10円玉で買えるお菓子が何十種類もあるという東京(だったと思う)の駄菓子屋さんが紹介されていました。懐かしい!


私が小さい頃、我が家はささやかな駄菓子屋をしていました。父は趣味が高じて写真屋をしていたのですが、町の中心部は戦争の時ひどい爆撃を受け店をなくしてしまいました。田舎への疎開の何年かを経て、結局私が生まれた年に公務員として遅いスタートを切ることになりました。すでに子どもは4人、安定はしていても新米公務員の安月給では生活が大変で、母が家で小さな商いをして家計を助けようということだったようです。

小さな家の玄関先を改造した小さな店。でも几帳面で器用だった父が壁に棚を何段か作り、そこにとりどりのお菓子の入った、ガラスにブリキの蓋の付いたビンがずらっと並び、平置きの台にはくじ引きなども結構あって、いつも近所の子どもたちが来ていました。兄や姉が学校に行ってしまったあと、急に母が仕入れに行かなくてはいけなくなったときなど、幼児の私が留守番をすることもあったようで(本人は覚えていない)、小さな働き手として期待できるため、当時始まったばかりの幼稚園に近所の友達が通うなか、私はいないと困るからということで行かせてもらえませんでした。「ヨーチエン」というところに行ってみたいととても残念に思ったことは良く覚えています。近所のおばさんが母に「○○ちゃんは感心だね、100円出してもちゃんとおつりをくれたよ」と言ったという話を母は私によくしてくれました。でも幼稚園に行かせられなかった言い訳かなあ・・・。

10円玉ができてからあっという間に100円硬貨ができたように、やはりその頃世の中は急激に変化していきました。テレビが家庭に普及してまず町から子どもの姿が消えます。うちの店ではお菓子だけでなく洗濯のりや裁縫用の糸といった家庭雑貨もいくらか置いていたのですが、そうしたものもだんだん売れなくなり、私が小学校の1、2年生の頃にたたんでしまいました。

お店にしていたわずかなスペースは、床を張って我が家の唯一の洋間になり、上の兄が使った後私の勉強部屋になり(下の兄はこの部屋を使うこともなく逝ってしまった)、父が駄菓子陳列のために作った棚は、本や年頃の女の子らしい小物などが飾られ、結構部屋の雰囲気作りに役立ってくれました。

下の兄が亡くなった後、姉の結婚、兄の就職と、短い間に我が家も急激に変化して、私は「狭いながらも楽しい我が家」の幸福な環境から、一人っ子のような生活になりました。頂き物のお菓子でも何でも昔のようにジャンケンしたりあっちが大きいこっちは損だと騒がなくても、独り占め状態です。でもなんと味気ないこと。そして世の中の方もまさに高度経済成長時代。新幹線が開通し、姉の嫁いだ東京もぐっと近くなりました。そして東京オリンピック


10円玉を握り締めて、これを買おうかあれにしようか、3日使うの我慢してチョコを買おうか、でもお腹すいてるし・・・と悩んだ小学生の日。いまやその10円玉はすっかり色あせてしまいました。会社で日々お金を勘定していても、古い10円玉のいかにも黒々とした感じが不潔な気がして、どんどん銀行に入れるほうに廻してしまいます。でもきっとそんな古びた10円玉は私と同じくらいの年寄りで、昭和の長閑さと繁栄を、そしてバブル後の平成の厳しい時代を見てきていることでしょう。

朝のテレビで10円玉60年のニュースを見て、ちょっと昔を思い出しました。