よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

相手との位置関係で変わる一人称

そろそろニュースでも見ようかとテレビをつけたら、「白熱教室」が始まっていました。もちろん本家ハーバードではありません。このところずっと日本の大学での「白熱教室」風景が放送されています。サンデル教授に比べればどうしても見劣りするし、面白さがいまひとつでしばらく見ていませんでしたが、今日はたまたまスイッチを入れたらもう講義も半ばにさしかかろうかという場面で、日本語の一人称の多彩さについて論じていました。興味が湧いてしばし見ていたら、面白さにすっかり引き込まれ最後まで見てしまいました。

見終わってから調べたら、今回は明治大学の国際日本学部、小笠原泰教授の「日本のビジネス文化」の講義でした。同じ一人の人が話す相手によってワタシだったりオレに変わったり、学校では「先生は」という人が家に帰ると「お父さんは」になったりする日本語。世界でもかなり珍しいのだそうです。欧米はもちろん、中国でも一人称は1つしかないのだそうです。

日本語の一人称が豊富なのは、日本人が自分というものを相互協調的自己と捉えるからなのだそうです。それに対して欧米人は相互対立的自己、自分が中心にいて相手を自分の周囲に置き対立的な位置関係で捉え、相手が誰であっても自分は変わらないという考え方なのだそうです。日本人は同じ円周上に自分も他者も置いて、相手との距離感や位置関係から自分を捉えるそうです。ふ〜〜ん、こういう思考回路があの大震災の時にも周りのことを常に考えて、突出した行動を取らせなかったのかしら、と非常に納得しました。欧米人なら他者は自分と対立する存在だから、常にまず「自分」を守ることを考えなければなりません。

近頃頻繁に耳にする「KY―空気を読まない」という言葉も日本人独特の感覚だそうです。そもそもこのときの「空気」という言葉、これは昔からの言葉で言うと「場」という語にあたり、「KY」とは「場違い、場をはずす」という語と同義になるのですが、この「場」に当たる単語が欧米の言葉にはないそうです。相手や周囲がどうであれ自己が不変であれば、場や空気を読む必要はあまりないのでしょう。逆に相手との距離や関係で自己を確定する日本人にとって、これは大問題となります。

学生の中にはトルコ人や中国人もいて、小笠原教授が日本人学生に交えて彼らの意見を聞いていくと、おもしろいようにくっきりとその違いが際立ちます。中国と日本は距離的にも近いし、古くから日本は中国の文化の影響も強く受けてきたのに、この違いはなぜなのでしょう。中国人はむしろ欧米人の合理的思考に近い感じを受けました。

「運」がいいと「縁」ができて、そうすると次に何を感じる?という教授の質問に、中国人の女性は「有用性」と答えました。日本人学生は「恩」と答えました。じつにおもしろい違いです。小笠原教授は「これだから中国にビジネス負けちゃうんだよな」と苦笑い。


番組の紹介ページを見ると、小笠原教授はアメリカやヨーロッパの企業で長くビジネスマンとして働きその後NTTデータ経営研究所を経て現職に就かれた方だそうです。語り口もとても親しみやすく、講義の内容は実践的でありながら深いものを含んでいて時間切れが惜しい気分でした。

若い頃は日本という国が好きになれず、日本人に生まれたことを残念にさえ思っていましたが、だんだん日本のいいところ、日本人の良さなどが分かってきた気がします。どっちが優れているということではなく、場の空気を読んだり根回しをして無駄な争いをできるだけ避けるような仕方を好んだりするのは、日本人が「和」というものをとても重んじるからで、そのために欧米人にはよく分からない、不気味だと取られたりもするのでしょうが、私は少なくとも好戦的であるよりはるかに良いと思います。

ただ、あらゆる分野でこれだけグローバルな戦いをしていかなければならない時代、お互いの文化や思考法の違いをしっかり認識することは非常に重要なことです。運よく縁ができた、できるだけ有用に使っちゃえ!と考える人々に、つい恩を感じてしまう私たちがどう立ち向かっていくのか。しかもなるべく激しいチャンチャンバラバラは避けたいと思えば、相手をよく研究して知恵を働かせて策を練る必要があります。経済分野でも外交でも空気なんてそもそも概念すらない、「惻隠」?なにそれ、どんなことしたってどんな武器使ったって強いもん勝ち!って考え方の卑怯な(日本の考え方では)国とも戦っていかねばならないのです。

来週の小笠原先生の講義も楽しみです。