よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

ヴィヨンの妻を読みました

まさに太宰治の分身と思われるような破滅型の作家、「大谷」の妻の視点で物語りは進みます。まず感じたのはその妻の言葉遣いの綺麗さです。今はこんなとんでもない夫を持って今日食べるものも十分でないような暮らしをしてはいるけれど、きっときちんとした育ちの奥さんなのだろうなと思いました。

ところが読み進んでいくと、その妻「さっちゃん」は浅草公園瓢箪池のそばで屋台を出していたお父さんに育てられているのです。母親は早くに亡くなっているという設定です。この作品が書かれたのは昭和二十年代の前半ですが、その頃にはこのような育ちの女性でもこれほど綺麗な言葉遣いが当たり前だったのでしょう。物語の筋とは関係ないところでまず感動してしまいました。

本筋の話は太宰らしく、生きていることの罪悪感に苦しみ、良き夫良き父たり得ない自分がいやでまたさらに酒におぼれ、挙句強盗のまねまでしてしまう弱い夫と、対照的に追い詰められるほどむしろ度胸が据わり、かえって明るく楽しそうにしたたかに生きる妻の話です。太宰生誕百年の年に映画化され、「さっちゃん」を演じた松たか子さんの好演もあって良い作品になっているようです。

こんな苦しめられるばかりのどうしようもない夫に、なぜこんな素敵な奥さんがくっついているのか不思議ですが、妻ばかりでなくあっちにもこっちにも彼を愛し、世話を焼き、お金を出してくれる女性が居るのですから、「大谷」は余程魅力的な男性なのでしょう。そして作家太宰治もおそらく出会った女性はとりこにならずにはいられないような存在だったのでしょう。


裕福な家に生まれ、容貌にも才能にも恵まれ、はたから見ればうらやましい限りの境遇なのに、『人間失格』を読んでも子どもの頃から苦しいばかりの人生だったように推察されます。たくさんのものを持っている、ということは必ずしも幸せを意味しないのですね。でも邪魔になろうが不幸だろうが、一度そんな立場になってみたい気は、やっぱりありますね。