よんばば つれづれ

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プロの仕事と浴室壁の思い出

私の住んでいる集合住宅の浴室は、コンクリートの空間があるだけ、という実に簡素なものだ。そこに居住者の裁量で風呂釜や浴槽を設置することになっている。

 

大きいけれども不便だった婚家を出た後、息子たちと3人で住んだ弘前の借家が、お洒落で便利にできた快適な家だったため、今の家に入居した時にはがっかりすることが少なくなかったが、中でも浴室の殺風景さには悲しくなった。

 

そこで、せめて壁に明るい色を塗ることにした。高校生と大学生を抱え、一から出直した仕事でまだ収入も少なかった時だったので、塗料を買って自分で塗る計画を立てた。ところがいざ塗る段になると、長男がやると言って譲らない。

 

離婚以前から、母親である私を守らなければという意識を強く持っていたらしい彼は、3人の家族になってから、いっそう男の自分が大黒柱代わりにならなければという責任感を強く持っていたようだ。がんとして譲らないため私が折れて、長男に任せた。結果的に、私がしたよりもずっと丁寧な仕事になったと思う。

 

こうして、寒いなか息子が苦労して塗装してくれたおかげで浴室は気持ちよく明るくなったのだけれど、いかんせん素人のすること。何年かすると、あちこち剥がれて情けない状態になってしまった。

 

ちょうどその頃、ガス器具の点検に来た担当店の人が、新型のコンパクトな風呂釜に換えれば、スペースいっぱいの大きな浴槽が入れられますと勧めてくれたので、交換してついでに壁面の塗り直しもお願いした。

 

さすがにプロの仕事は仕上がりもまるで違ったけれど、それ以上に感心するのは持ちの良さで、10年以上経ってもびくともしなかった。

 

それでも一昨年あたりから、天井のコーナー部分などにいくらか剥がれが見受けられるようになってきた。まだまだこの先20年やそこらはここに住むのだろうから、そろそろ改修の時期だろうと思い、以前業者を世話してもらったガスサービスの担当店に依頼した。

 

その工事日が今日だ。前回はちょうど風呂釜や浴槽を交換するのと同時だったので、何もない状態で塗装できたが、今回はてっきりそれらを汚さないよう養生したうえで、塗れる部分だけを塗るのだろうと思っていた。ところが、朝、まず浴槽や釜を取り外しにガスショップの人が2人来て何もない状態にし、それから塗装の方が作業に入ったのだ。

 

つくづく、プロの仕事とはこういうものかと感心する。DIYの楽しさというものももちろんあるし、私はどちらかというと自分で工夫して暮らしを快適にするのが好きだけれど、餅は餅屋ということもあるなあと思うこの頃だ。

 

という訳で、ガスショップさんに、新たに台所の壁や床のリフォームの見積もりもお願いした。たのしみ・・・。

 

 

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こーんなワケにはいかないけどね。

肉筆の力 詩織さんと望月衣塑子さんから・・・

この夏、私の所属する「じじばばの会」では、前文科省事務次官前川さんたちに応援はがきを送ろうというキャンペーンをした。

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このはがきを受け取った詩織さんからはお礼の手紙をいただき、昨日地元の大学の学生自治会の招きで講演にいらした東京新聞の望月記者からは、その講演会に参加した人を通じて(内輪のイベントだったらしく、私たちは希望しても参加できなかった)喜びの声を聞くことができた。

 

詩織さんの手紙にも、肉筆のコメントの書かれたたくさんの葉書にとても励まされたとあったが、望月さんも、バッシングもいっぱい受けていたので、肉筆の応援がとても嬉しかったと仰ったそうだ。

 

前川さんには、先月下旬の浜松での講演会の際に直接手渡す予定で主催者にも了解を取り付けていたのだけれど、結局当日の運営の不手際でプログラムが大幅に押してしまい、ご本人と面会する時間が無くなってしまった。不本意ながら主催者に預けて帰るよりなかったため、残念ながらいまだちゃんと届いたのかご本人に確認はできていない。

 

今のところ前川さんにはお受け取りいただいたと信じるしかないのだけれども、詩織さんと望月さんの喜びの声を聞いて、改めて肉筆の力というものを感じている。おそらく2人には、インターネット上でもたくさんの励ましの声が届いたに違いない。「詩織さんを応援する会」というサイトも、「#望月衣塑子記者応援」というハッシュタグもあるくらいだ。それでも、きっと、一枚一枚に肉筆でコメントや名前が書かれた葉書は、格別だったのだろう。

 

これも考えついたのは”言い出しっぺ”だったのだけれど、つくづく、いい活動だったなあと自画自賛している。暑い時期に、街なかで喉をからして呼びかけた甲斐があった。さまざまな社会活動に、インターネットという便利なツールをうまく活用することはもはや不可欠のことだが、人が人に思いを届けようというとき、じかに顔を合わせるとか、肉筆で書いたものを届けるといったアナログの手段は、もしかするとデジタルな手段のなかった時代より、値打ちは増しているのかもしれない。

 

 

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文化の日の夕方の空。

散歩していたら、沈みゆく夕日がとてもきれいだったので写真をと思ったのだけれど、高い建物のない場所まで歩くうちに沈んでしまった。秋の日はつるべ落とし。

(「つるべ」を知らない人も多くなっているのだろうな)

 

インディアンサマー・老婦人の夏・小春日和の窓辺

二週続きで台風に見舞われた週末だったけれど、今週は好天に恵まれた。巷は三連休という方も多い。毎日が日曜日の私は特に連休だからといって出かけたりもしないけれど、気分転換に、孫へのはがきを投函がてらランチに行くことにした。

 

ポストのちょっと先で都合がいいので、先日行ったちょっきり1000円のランチのカフェにした。しかし、残念ながら日替わりランチは平日のみとのこと。すっかり日替わりランチモードでいたのであまり他のものに食指が動かず、なんとかオムライスを注文。

 

オムライスといえば、子供たちがいたときには3人分作るので焦ったものだ。料理は苦手で手際も悪いくせに、全員に熱々を食べてもらいたいので、オムライスのような一人前ずつ作らなくてはならないものは、少しでも先に作ったものが冷めないようにととても気がせいてしまう。それなのに「ごはんよ」と声をかけてもすぐ息子たちが来なかったりすると、腹を立てたものだった。

 

それも今は昔。もはや焦らずとも一人分作るだけなのだから、いつでもオムライスなど作ればよいようなものだが、なぜか一人になったら作らない。やはり喜んでくれる人がいなければ、作ろうとは考えないメニューだなあ・・・などと考えつつ待っていた。

 

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この前と同じ、一番奥の小さな中庭に面した席。床までのガラス窓からいっぱいに日が入って、コーヒーカップに当たっている。ぽかぽかした感じが嬉しい季節だ。

 

今日のような日を小春日和というのだろう。小春日和を北アメリカやヨーロッパではインディアン・サマーと呼ぶ。ドイツでは老婦人の夏、ロシアでは婦人の夏。イギリスにはセントマーチンの夏という言葉があるという。心地よい季節が、日本では春であるのに対して、ほかの国々では夏であるところが面白い。日本の夏は湿度が高くて不快だからだろうか。猛暑の多い近頃ならなおのこと、夏が心地よい季節とはとても思えない。

 

でも、花粉症の人の多い近年は、春もあまり快適な季節ではなくなっているかもしれない。

本好きにはやっぱり楽しい『お探しの本は』門井慶喜著

先日、いつも利用する市民館に行くと、書架の一角に「連作短編」というコーナーができていて、そこで見つけた一冊『お探しの本は』。殺人も刑事も出てこない、本にまつわるミステリーだ。

 

***出版社のサイトの紹介文***

和久山隆彦の職場は図書館のレファレンス・カウンター。利用者の依頼で本を探し出すのが仕事だ。だが、行政や利用者への不満から、無力感に苛まれる日々を送っていた。ある日、財政難による図書館廃止が噂され、和久山の心に仕事への情熱が再びわき上がってくる……。様々な本を探索するうちに、その豊かな世界に改めて気づいた青年が再生していく連作短編集。

 

本にまつわる物語といえば、真っ先に『ビブリア古書堂の事件手帖』が頭に浮かぶ。本に関するうんちくを楽しみながら、物語の登場人物もそれぞれ魅力的で、長いシリーズもまだ物足りないほどに感じる。

 

『ビブリア・・・』同様、この作品もライトノベルのような装丁(と言いながら、何をもってライトノベルというのか分かっていないが)ながら、意外に現代の図書館を取り巻く問題も含んでいて、読みやすく楽しいうえに考えさせるものもあった。

 

「図書館ではお静かに」「赤い富士山」「図書館滅ぶべし」「ハヤカワの本」「最後の仕事」の5つの物語からなり、毎回、レファレンス・カウンター担当の主人公和久山隆彦が、周囲の仲間の協力も得ながら、かなり難しい条件の本を探し出す。その過程に書物の周辺の興味深い話があり、また正解に辿り着く謎解きの要素も味わえる。

 

なかなか魅力的な敵役として、市の財政難を理由に図書館廃止を主張する人物が、図書館長になって登場する。この敵とも味方とも判別のつかない興味深いヒールと、和久山のバトルを続編でもっと読みたいものだと思うが、物語の最後で主人公は図書館から市の総務課企画グループに配置転換となってしまうので、続編は期待できないのだろうか。

 

 

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訪れたくなる空間 ドラマ『この声をきみに』の部屋

今日は楽しみにしているドラマ『この声をきみに』の放送がある日だ。もう今週と来週で終わってしまう。残念でならない。テーマといい、ドラマの作りといい、斬新で、まだまだドラマの可能性はあるということを示してくれた。

 

脚本も演じる俳優さんたちも良いし、取り上げる詩や童話なども良いし、前のブログで書いたように、そのもともとすぐれた作品を、個性的な俳優さんたちが朗読することで、いっそう魅力的になっている。

 

そして、さらにこの素敵なドラマを盛り上げているのが、セットや小道具や衣装などの美術さんの仕事だ。

 

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これはドラマの中心になる場所。柴田恭兵さん演じる佐久良先生の朗読教室だ。落ち着いていて温かみがあって、うっとりするような空間になっている。

 

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上の写真の朗読教室の向かって左側部分。

 

この教室で講師を務める、麻生久美子さん演じる京子先生のアパートがまたとっても素敵なのだけれど、公式ホームページにも写真がなく、ネットで探しても残念ながら見つけられなかった。こちらもやはり本好きらしく本がいっぱいなのだが、そのいっぱい加減が、乱雑なようで独特の雰囲気を醸し出している。部屋の細部まで住む人の愛情が感じられる、温かみのあるインテリアだ。

 

佐久良先生の教室も、京子先生の部屋も、本で埋もれている。何度も引っ越しをして本にはこりごりして、もう本はたくさん持たない!と決めた私だが、こういう素敵な部屋を見るとたまらない。

 

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これが佐久良先生の朗読教室「灯火親(とうかしたしむ)」の外観。実在のお宅を借りているとのこと。控えめなステンドグラスの窓がチャーミング。

 

この他にも、朗読部分で出てくる空想シーンのセットや衣装にも、美術スタッフの工夫や熱意があふれている。返すがえすも、前半の録画を残さなかったことが悔やまれる。

 

こんな素敵な朗読教室があって、佐久良先生みたいに魅力的な先生がいらしたら、絶対に入り浸ってしまいそうだ。

 

 

写真はすべてドラマの公式ホームページからお借りした。

日本で進むテロを潰す男たち 今野敏著『回帰』

近頃テレビドラマに出てくる警察組織は、内部の対立を強調したものが目について、こんなに互いに反目しあっていては、捕まえられるものも捕まえられないのではないかと心配になってしまうが、この小説はそのあたりのさじ加減が非常にうまい。刑事部と公安部が疑心暗鬼で腹を探り合いながらも、理性的な調整派の人物が両者を取り持ちながら、効果的に捜査を進めていく。

 

ある日、四谷のカトリック系の大学のそばで爆発事件があり、死者2名と重軽傷者が出る。事件前に付近で中東系の男の目撃情報もあり、どうやらテロ組織の犯行らしい。調べを進めるうち、今回の事件は予備段階で、近々もっと本格的なテロを計画しているらしいと分かってくる。

 

警視庁刑事部捜査一課の係長である樋口を中心に、彼の娘の海外バックパッカー旅行を許すかどうかという家庭問題を絡めながら物語は進む。刑事部の仲間の他、公安部の刑事や、問題を起こして警察をやめたあと海外を放浪し、急に日本に帰ってきた因幡という謎めいた男が絡んで、テロリストたちを追い詰めていく。

 

犯罪を憎んでともに捜査していながらも、刑事それぞれに違う被疑者の人権についての考え方。またチームで動く刑事部と、個人プレーの公安部という違いなのか、なかなか情報共有もうまくいかず、誰が真の見方で誰が敵なのかも不確かになってくる。冷静で人権派の樋口には好感が持て感情移入してしまうため、こういうところで結構ハラハラしてしまう。

 

現場で目撃されたという中東系の男に対しての、相棒の刑事の恫喝的な取り調べに樋口は反発を覚える。行き過ぎた長時間の拘束にも異議を唱えるが、テロ事案では人権など考えていられないと、公安部は歯牙にもかけない。公安部は国体の護持のためには人権は失われて当然だと主張する。

 

作品中に以下のような部分がある。

最近の若い世代は民主主義を信用していないように感じられる。あるいは、大して大切なものとは考えていないようだ。民主という言葉が左翼的だと言う声も聞かれる。

人々が民主主義を獲得するまでに、どれくらいの苦難があったか。それが失われたときに、民衆はどんな悲劇に直面するのか。

それを今、考える人が少なくなりつつあるような気がする。

 

この樋口の思いは、そのまま著者今野敏さんの思いだろう。今野さんは1955年生まれ。かろうじて、戦争中の話などを聞いて育ったであろう世代であり、学生運動の嵐の時代も記憶にあるだろう。「特高言論弾圧をしていたのは、つい七十年ほど前の話なのだ。いつその時代に逆戻りするか分からない。人々が気を許せば、すぐにその権利を奪おうとする。それが支配者というものだ」とも書いている。

 

この作品は今年2月に出版されている。おそらく安保関連法や共謀罪法などを意識し、現政権の憲法を無視した強権的な政治の仕方に非常な危機感を抱いて、この作品に思いを込めたのだと思う。とても読みやすいエンターテインメント作品に、さりげなく権力というものの怖ろしさを描いてくれているのが嬉しい。

 

 

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静かな女性の姿に惹かれる『青梅雨 その他』永井龍男著

昭和41年発行の本だ。六十代半ばを過ぎた私には、昭和40年代はそれほど遠い時代のような気がしないのだが、半世紀前のことであり、確かに本作を読んでいると、描かれている人や社会の雰囲気が、もうすでに身の回りにすっかりなくなってしまっていることに気づかされる。

 

「新潮」「小説現代」などに発表された十三の短編が収められていて、一番古いものは昭和36年、最も新しいものは昭和41年1月号掲載の作品だ。その時期は、東京オリンピックをはさんだ、おそらく日本が非常な勢いをもって経済成長をしていた頃に当たるのだろうが、どの作品も静かで穏やかで落ち着いているという印象を受ける。ことに女性たちの、強さを秘めながら控えめでしとやかなありようにとても魅力を感じた。

 

何年か前に同じ著者の『一個 秋その他』という作品を読んだことがあって、今回のなかに、その時に読んだものが三篇入っていた。近頃は推理小説ですらきれいに忘れてしまったりすることが珍しくないのに、その三篇がすぐ以前読んだものだと分かった。どれも、抑えた筆致の淡々としたわずか20ページ余の作品ながら、私の老化した脳にしっかりとした印象を刻んでいたことに改めて驚かされた。

 

一番印象に残る作品は『冬の日』だ。主人公の登利は44歳。子供を産んで一か月足らずで亡くなった娘の婿佐伯と、母を喪った孫娘をひきとって一緒に暮らしている。孫娘は2歳になり、佐伯には再婚が決まったため、彼女は彼と孫のために自分の家を譲り、自身は大阪の弟のところに身を寄せることにする。

 

新しい若い家族のために彼女は畳替えを依頼し、やってきた畳職人とその息子や、訪ねてきた佐伯の先輩などとのやりとりを通して、登利の周辺を描いていく。彼女と佐伯の間には姑と婿以上ものがあったのだ。寂しさや悲しみを自分の胸一つに抑え込んで、相手の未来や孫を思って退場する登利。

 

明け渡す家の掃除にいそしむ彼女は、ふいの来客にいそぎ割烹着を外す。おそらく襟元もきりりと、地味な着物に身を包んでいることだろう。現代の四十代や、それ以上に、分別の足りない自分を思うと、あまりの対照に恥じいってしまう。

 

時間は遡れず、遡るべきでもないだろうし、制約の多かった昔が良いわけでもない。言葉も人も社会も、なにもかもが時間とともに変わっていく。だからこそ、美しさ、大切さに気付くということもある。

 

しみじみと、そうした、私たちが便利さと引き換えに失ってしまったもの、ほんの50年前には当たり前にあったものを考えさせてくれる読書だった。

 

 

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出版当初の色はどんなだったのだろう。今は珍しくなった布張りで箱カバー付きの本。

写真の加減で無地のように見えるが、本体にも書名が型押しされている。