よんばば つれづれ

現在はこちらで書いてます https://hikikomoriobaba.hatenadiary.com/

のめり込みそうである

本日は単なる親ばか記事ですので、家族写真の年賀状が苦手というような方は、どうぞスルーしてください。あっ、でも、挫折した話なんだから親ばかじゃないかしら・・・。

 

 

先週10年ぶりに改訂される広辞苑の第七版で、「やばい」という語に「のめり込みそうである」という意味が追加されるというニュースが流れた。これを聞いて、私は過去のある場面を思い出した。

 

当時次男はロックバンドを組んで、名古屋のライブハウスやイベントで演奏していた。「超」のつく方向音痴で乗り物に不案内な私も、時々は会社がひけたあと駅に直行して新幹線往復切符を買って、名古屋まで聴きに行ったりしていた。

 

しばしば、ネットで息子のバンドの名前を検索しては、メディアの評価や巷の反応に一喜一憂していた。そうして出合ったなかのあるコメントに、「今日見た〇〇(息子のバンドの名)、ヤバすぎ!」とあって、私は驚いた。何がそんなにいけないのだろうと読み進めると、不思議なことに褒めてくれていたのだ。

 

「ヤバイ」などという言葉をかたぎの人間が使うことに抵抗のあった私にとって、あろうことか若い女の子が、しかも肯定的な意味にも使うのかと非常な衝撃で、その時のことは強く印象に残った。

 

それからおよそ15年ほど経っただろうか。この15年という時間が、一つの言葉の使われ方の定着度を見るのに適当なのかどうか、私には分からない。ただ、このニュースを耳にして、ああ、ついに広辞苑に、「ヤバイ」の肯定的な使い方さえも認知される時代になったのかという感慨を持った。

 

 

ついでに、息子たちのバンドがもうひと息、ふた息というあたりにいったとき、某学会から「入会(入信?)すれば応援しますよ」というお声がかかったということを記しておく。私に似て頑固な息子は拒否し、だからという訳でもないだろうが、長い回り道の末に、今は音楽で食べることを諦め「一般人」をしている。

 

 

f:id:yonnbaba:20171030111330j:plain

 

 

11年前のパソコン録音風景は、もう若者には理解不能の世界かも・・・

以前利用していた、別のブログサービスサイトに書いた文章。当時の私は、会社勤めをしながら、休日を利用して「音訳」という視覚障碍者のための録音図書づくりのボランティアに励んでいた。

 

パソコン録音に移行した当初は、現在では考えられない低いスペックのパソコンで、当時としてはかなり大きなサイズであった、音声データファイル(まだ一般には動画などありえなかった)を扱うので苦労したことに触れている。

 

2006.8.11.
お盆休み第1日目。
母が出かけてひとりなので、
チャンス!とばかり音訳の録音に励んでいます。***

音訳を始めたときからずっと録音はテープデッキでしていましたが、
何年か前からカセットテープ自体の品質がかなり問題になってきて、
読み違いを修正するのに何度も進めたり戻したりという
厳しい音訳の使用に耐えない(途中で巻き戻し出来なくなって、
それまでの苦労が水の泡になったことも)製品も少なからず・・・で、
2年ほど前からパソコンでしています。

5~6年前に一作だけパソコンで作りましたが、
当時はまだパソコンの性能も低く、
音を扱うこともまだあまり多くなかったため、
サウンドカードを取り替えたり、
ものすごく小さな音でしか録れなかったりで、とても苦労しました。

その頃を思うと今はハードディスクも大容量になったので圧縮もせず録音でき、
録音しながら、分からない専門用語や地名や人名が出てくると、
録音ソフトを立ち上げたまま、
インターネットですぐ検索して調べたり・・・ということが
難なくできるようになりました。

パソコン録音の目下の最大の悩みはファンの雑音です。
水冷式の静かなパソコンができたという記事を見たので、
いいなあと思いますが、今使っているバイオはまだ2年ちょっとしか使ってなくてもったいないので、
これがくたびれてきて買い換えるときが来たら、
その時には迷わず静かなパソコンを選びたいと思います。

 

***「母が出かけて・・・」録音図書は雑音が入ってはだめ(息を吸う音や口を開けるときの小さなチャッというような口内音も)なので、母がいると無音状態を保つのが難しかった)

 

この時のバイオが、清水の舞台から飛び降りるくらいの決心で買った高価なものだったにもかかわらず(スタイルはうっとりするくらい素敵だった)、私の使い方が悪かったのか4年持たずに故障してしまった。次に買ったエプソンエンデバーは特に水冷式でもなかったが、技術革新の成果なのか、すでにファンの雑音は問題にならなかった。

 

デジタル録音に切り替えた初期は本当にトラブルが多くて大変だったけれど、壁にぶつかるたびに新しい知識を覚えることができて、結構それが面白かった。まだ若かったんだなあと、しみじみ思う。今ならとてもそうした困難を乗り越えられないだろう。

 

 

f:id:yonnbaba:20111021231339j:plain

エンデバーとマウスに寄り添うオーガスト。彼女たちも時々録音に参加してくれて、やり直す羽目になったものだった。

 

 

台風の中の「よんばばんち」は参加者一人だった。今日は豊川九条の会主催の「浜矩子講演会」もあって、そちらに行った仲間も・・・。

 

 

 

 

親子料理教室のお手伝い

昨日に続いて料理教室。ただし今日はいつもの国際協力コスモス会の、ではなく、豊橋市の東部にある二川地区市民館の市民館まつりの企画のひとつである、「作る教室・親子で作る特別なゼリー」と銘打った教室の講師としての参加だ。

 

コスモス会の代表がこの二川地区の住人であるご縁か、毎年この市民館で料理教室を頼まれている。今年は代表が都合が悪かったのでお断りすることも考えたようだが、一度断ると今後こうした機会をもらえなくなるかもしれないからと、ピンチヒッターをかき集めた。なんとかメインの講師は代表の二人の娘さんが務めてくれることになり、私を含む三人が、コスモスから助手として参加した。

 

参加の申し込みは午前と午後合わせて10組。二人とか三人のお子さんを連れてくるお母さんもあるので、子供はけっこう大勢だった。けれども料理という内容ゆえか女の子が多く、騒ぐ子も言うことを聞かない子もいなくて、事故も混乱もなく順調にできた。

 

実は、今日のメニューの三色ゼリーは、先月のコスモス会の料理教室で作ったのだけれど、材料の準備や、寒天、ゼラチン、アガー、くず粉と4種類で同じような手順を繰り返すことなどがとても煩雑で、大人ばかりでも思いのほか混乱したのだ。だから、そのメニューを、本来講師となるはずの代表抜きに、しかも子供も一緒に作るというので、かなり私たちは心配していたのだ。

 

ふたを開けてみたら、管理栄養士の資格をお持ちの、上のお嬢さんがメインの講師を務め、あうんの呼吸で妹さんが動くという具合で、最初に出来上がりの見本を示したうえに、手際よく説明しながら作り進んだ。三層にするために、下の材料が固まらないと次のものが入れられないため少々待ち時間のロスはあったものの、全体的には実に順調に出来上がった。

 

調理中、お兄ちゃんがする、弟がする、と競争になる子たちもいれば、かたやお母さんがやってみれば?と水を向けても、お母さんの陰に隠れて躊躇する子もいる。私が洗い物をしていると、流しにやっと手が届く程度のちっちゃな女の子がそばに来て、「あたしも洗う・・・」と言っている。やってもらうと、とってもご満悦だった。子供は大人の真似が大好き。

 

固まるのに時間がかかるため、出来上がったお料理はみなさんお持ち帰りいただいたのだけれど、なかには「ここで食べたあい!」と主張する子もいた。なんとか納得してもらい、お持ち帰り。きっと3時のおやつや夕食のデザートで、みんなのおなかに収まったことと思う。

 

f:id:yonnbaba:20171028101641j:plain

 

f:id:yonnbaba:20171028103211j:plain

出来上がり見本の三色ゼリー。

カップの底にはパイナップルと缶詰のみかんとキーウイ。そして緑の寒天、赤のゼラチン、一番上にクラッシュ状にした透明のアガー。

手順を簡単にするため、くず粉は抜いた。

コスモス会でブラジル料理「ストグロノフェー デ フランゴ」

今日のコスモス会は料理教室。ブラジル料理「ストグロノフェー デ フランゴ」を教えてもらった。「フランゴ」はチキンのことで、ハッシュドビーフのチキン版とか。

 

f:id:yonnbaba:20171027105811j:plain

これが出来上がったところ。お茶はルイボスティー。右上の小さな丸いものは、今日の料理を教えてくれたWさんが作ってきてくださったお菓子。ココとコンデンスミルクでできているそうだ。

 

 

f:id:yonnbaba:20171027100004j:plain

これはサブで教えてくれたEさん(驚くほど足が長くて、私の首のあたりにウエストがくる)がホワイトボードに書いてくれたレシピ。

 

 

f:id:yonnbaba:20171027102006j:plain

全部で12人(あと赤ちゃんひとり)と参加者がいくぶん少な目で、なんだかのどかな調理風景。ハラルのチキン使用の人が3人。

 

一口大に切った鶏肉に塩コショーするほかは、チーズの塩分くらいだけのせいか優しい味で、油こくもなく、とても美味しかった。トッピングのポテトチップも、塩味はあまりない。これもブラジルのものをWさんが持ってきてくださった。

 

estava delicioso  ごちそうさまでした。

 

 

ささやかな喜び

選挙に気を取られていて、うっかり一番最後の母の月命日さえ過ぎてしまっていた。気付いたけれど、今度は毎日雨。で、やっと晴れた今日墓参に出かけた。

 

霊園に隣り合った桜の名所の公園は、台風の風に飛ばされた桜の小枝や色づき始めた葉っぱが散り敷いていた。ときによっては、霊園内の松のかなり太い枝が折れて落ちていたり、古くなった木の幹が傷められてしまっていることもあるが、今回は小枝ばかりだったようだ。

 

ほんの一、二回前に来たときは汗をふきふき歩いたのに、もうすっかり歩くのが心地よい季節になった。時の移ろいのなんと早いこと。

 

帰り道で、以前寄った雑貨屋さんでカフェを併設しているお店でお昼にする予定だった。霊園からの坂道を下っていくと、ちょうどその店の人が買い物袋を提げて、入り口のドアの鍵を開けているのが見えた。良かったと思い急いで駆け寄ると、閉まりかかるドアに「都合により本日は1時半から営業します」の表示があった。そのとき時刻は12時少し前。ああ、またしても振られてしまった。優雅なこのお店、きっと趣味でやっているのであろう。

 

しかたなく、近くの大型店の中のお店で昼食にし、そのあとテナントのアクセサリーショップをのぞいた。なぜか60を過ぎてから、揺れるイアリングに惹かれるようになった。お気に入りのものをいくつか落としてしまったし・・・と見ていたら、気に入るものがあったので求めた。スッキリタイプか可愛らしいものか決め難かったので、プチプライスだしと思い、両方買ってしまった。

 

f:id:yonnbaba:20171026165041j:plain

可愛いタイプ

 

f:id:yonnbaba:20171026165114j:plain

スッキリタイプ

 

ささやかな喜び。

無為は空であるという示唆

私のつまらないボヤキに、いろいろありがたい言葉をいただいた。単純なお天気屋の私は、ちょっとした要因や、あるいは何もなくても、周期的に落ち込んだりする。

 

今回も、考えてみれば恵まれているのだ。自分が深刻な病気であっても、あるいは家族の誰かが難しい病気であっても、虚しいなどとは言っていられない。息子たちが曲がりなりにもちゃんと暮らしていて、夫婦仲にも親子関係にも問題がないから、母としても祖母としてもまるでしゃしゃり出る幕はないけれど、それは幸せなことでもある。第一食べていくことに不安があったら、ぼやいている暇もないはずで・・・。

 

単身者世帯が増えている現代。今後ベーシックインカムなどで生活の基盤が保証されると、こういう考え方によっては少し恵まれた悩みが問題になってくるかもしれない。幸か不幸か自民が大勝してまた当分安倍政権が続くので、シャンパンタワーの下層にまで届くような税の再分配がなされる時代は当分来ないだろうけれど。

 

inuwanさん(id:inuwan33)のくださったコメントが、示唆に富んでいる気がした。

無為はネガティブな意味で使われることが多いですが、>自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと<という意味でもあるのです。
yonnbabaさんが無為に過ごしたと思っているのも、裏を返せばそれが自然な事だったのかもしれませんね。
その日はyonnbabaさんの心が空になっていたのでしょう。
空は大事なことで、器も空があって水をためられるのだし、部屋だって空があるから生活ができるのでしょう。
なんでもかんでも詰まっていると使い物になりませんよね。
何もしないで生きることに案外解があるのかもしれません。

 

無為は空でもあって、器も空だからこそ水をためられる。なんと深い境地だろうと思う。やはり富の再分配が理想的になされ、全ての人が労働の強制から解放されるような社会は、一人ひとりの人間の意識がかなりの高みに到達していないと、せっかく手にした自由の使い方を間違いかねない。

 

はたして人間は、そのような精神的高みに行きつけるのか。それとも、いつまでたっても私利私欲に振り回され、あくせくと憎みあったり殺しあったりし続ける生き物なのだろうか。

 

まずは私自身、無為を空と受け止め、より多くの水をためられる器になりたい。

 

 

f:id:yonnbaba:20171025174621j:plain

 

 

ガラスの天井・鉄の天井の違和感と無為な一日

言わずと知れた、小池百合子さんがパリで発した言葉。聞いたとたんに違和感を感じた。現在では、女性に限らずマイノリティ全般を対象にするらしいが、もともとこの言葉は、能力があるのに女性だということが障害になって相応の地位に上っていけない状況を表す表現だった。

 

けれども、小池さんとか、ついでに言わせていただけば、今回の選挙で最も早く当確の出た人の一人であろう稲田さんなどは、そもそもガラスの天井というものが存在したのだろうかと思う。むしろ、女性だからこそ(そしてさらにハラスメントなどの誹りを恐れず言えば、見た目もそこそこだから)、あのキャリアであの地位まで行けたのではないかと思う。

 

女性であることすら自身を演出する武器にして都知事になり、風を起こして都議選に勝利した小池さんに対して、ガラスの天井を破った!と感じた人は少ないのではないだろうか。

 

まして今度の衆院選で「改めて鉄の天井の存在を知った」だなんぞと、責任転嫁も甚だしい。自身のおごった気持ちから出た失言の数々が、せっかく、周囲に集まった政治家たちや、応援する人々にかけていた催眠効果を霧消させてしまったにすぎない。

 

また一方では、その女王様にひれ伏して威光のおこぼれにあずかろうとした人たちが、あっという間に舞台が暗転して端役となるや、女王様の独裁のせいだと恨み言を言っている。これもまた実に情けない。こういう時にこそ言うのではないだろうか、「自己責任」と。

 

 

さて、今週は珍しく週半ばまで何の予定も入っていない。昨日は思い切り落胆に浸り、今日から心機一転、のつもりではいたのだけれど、何の予定もなくパソコンやら読書やらで過ごしていると、食事どきに台所に立っては思う。何もしていないのになぜおなかがすく?私が生きていることに何の意味がある?

 

たいして役に立てていない民生委員だけれど、私にとっては現在これがありがたい自分存在の意味になっている。いまどきなかなか引き受け手はいないから、私がいないとたぶんちょっと困るだろう。頑張らねば、と思える。

 

だんだん、こうして存在の意味を考える時間が増えていくのだろうか。人のために働くことができなくなったら、どこに意味を見出せばよいのかと、ちょっと心配になる。その点、大変ではあったけれど、子育て中は幸せだった。幼い子供は「お母さん、命!」みたいな熱い目で見つめてくれたものだ。

 

私の幸せ、生きる意味は、必要とされること、らしい。死ぬまで必要とされていることなど、できるだろうか・・・。

 

 

f:id:yonnbaba:20171024190611j:plain

猫のように、生きられたら!

無理だ。猫は存在するだけで愛らしいもの。ヒトは困ったものデス。