よんばば つれづれ

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墓参の功徳?

今日は母の月命日。墓参りに行く予定にしていた。ところが朝ちょっと込み入った電話があって、小一時間ほど話してしまった。それも、毛染め剤を塗ったままだった。普通なら15分か20分おくだけなのに、こんなに塗りっぱなしにして大丈夫だろうかとドキドキしたが、色が少々濃くなりすぎただけで、幸いかぶれたりすることはなかった。

 

そんな訳でただでさえ支度のゆっくりな私が、すっかり段取りが狂ってしまった。いつもなら、ここでもう出かけるのは又にしよう・・・となるところなのだが、なぜか今日はそれでも行こうと思った。電車をやめ、タクシーにすれば午前中に墓参を済ませられる、そう思って準備をすませ、花を買うため近くのスーパーに向かった。

 

すると、前方から来た社会福祉協議会の車がスピードを落とし窓を開けて「〇〇さん!」と呼びかけて来た。なんと、二十年ぶりくらいの友人だった。豊橋に戻ってきてまだ間もない頃、どうせ新たに仕事を探すのなら前々から興味のあった福祉分野でと思い介護の仕事をしたときに、同じ職場で働いた仲間だ。

 

年齢は私より10歳くらい年下だけれど、とてもしっかりしていて仕事がよくできる、頼りになる先輩だった。運転手さんが休みで、2人だけで組んで訪問入浴車を運転して行く時など、方向音痴の私と違って、大通りが混んでいたりすれば、知らない抜け道を勘一つで選んで行ける頼もしさも持っていた。

 

今日は、ちょうど私の団地に担当の方を訪ねていくところだと言う。「もう56歳になっちゃったよ。あと4年頑張る!今は老人介護でなく障碍の方を専門に担当してる。〇〇さん、民生委員さんやってるんだよね。今度そっちのことでも相談があるけど、また仕事とは別にゆっくり話そうね~」と言って、今は仕事中だからと車をスタートさせた。

 

とても気が合って、職場や上司に対する不満でも意見が一致して、自宅にも遊びに行きご主人やお子さんと会ったこともある。当時3人のお子さんは、まだみんな小学生だった。私がその職場をやめてから彼女も他の職場に移り、年賀状をやり取りするくらいで、ほとんど会う機会もなく20年近い月日が流れてしまった。

 

今日長い電話があったりしてグズグズしていたからこそ、あの時間に私があの道を歩き彼女と出会えたのだ。あとほんの数分ずれても会えなかったと思うと、今日の偶然に感謝するばかりだ。一緒に働いた期間は1年ほどにすぎないのだけれど、心が触れ合った相手とは、一瞬の邂逅で一気に同じ時間を過ごしたところに戻ることができることを、今日久々に実感した。

 

別れ際、ハンドルを握る彼女が「今日はいい日だ・・・」と呟くのが聞こえたけれど、私も今日は本当にいい日だった。遅くなっても諦めないでお墓に出かけることにしたので、父や母が友に会わせてくれたのだろうか。

 

 

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直虎ゆかりの龍潭寺と焼津さかなセンターを訪ねるバス旅行

昨年、高齢化著しい団地の助け合いの意味を込めて、老人会を発足させた。今年は校区の老人会の団体にも加えていただき、今日はその校区老人会主催の日帰りバス旅行の日だった。こうした団体バス旅行は好みではないけれど、既存の3つのグループの取り分を減らして、市からの助成金を分けていただいたこともあり、親睦を深めるために参加した。

 

最初の見学地は「おんな城主直虎ドラマ館」。大河ドラマを見ていればもっと興味深く見られたのかも知れないが、あいにく私は1、2回で脱落してしまった。着物や大道具小道具類を古めかしく見せる「エイジング」の展示は興味深く、こういう仕事も楽しいかもしれないと感じた。ただドラマ館自体の規模が小さいので、どの展示も中途半端で物足りない。もっとも団体旅行の行程はたいてい忙しく滞在時間が短いので、この程度のボリュームで丁度いいのかも知れない。

 

私たちのような毎日が日曜日の高齢者の観光客で、平日ながらなかなかの賑わい。でも、ドラマが終わってしまったらおそらく閑古鳥になってしまうだろうに、こんな施設を作って採算が合うのだろうかと、他人事ながら心配になった。ひょっとしたら、放送終了後は別なものにするなどの計画があるのかも知れない。

 

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ドラマ館のそばにある気賀の関所。先日『ブラタモリ』で見たような女改めの場面や、後ろに弓矢がズラッと並んだお調べの場面が人形で再現されていた。このあたりは、東海道の方には新居の関所があるが、この気賀の関所は姫街道にあった関所。もう少ししっかり見たかったが、時間切れ。

 

次の目的地は龍潭寺

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うぐいす張りの廊下。たしかにキュッキュッとなっていた。年月を経た建物の緊張感と温かみの両方が感じられる空間だ。

 

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小堀遠州作の池泉鑑賞式の庭園。つつじがまだ残っていて、睡蓮やあやめも咲いていた。ここももう少しじっくり見たいところ。

 

うちの老人会からもう一人参加してくれた方が80代の方だったこともあり、あまり早く歩く訳にも行かないので、井伊谷宮や直虎の墓は省略。

 

次は高速に乗って焼津まで走り、さかなセンターでお寿司食べ放題の昼食。

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まあ、いかにも「食べ放題」の寿司では、ある。全部で18種類ということだったので、ぜひ全種類たいらげたいと思ったけれども、しらすと桜エビのミニ丼が付いていたこともあり、15個でギブアップ。

 

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さかなセンターに並ぶ店々。安いけれど、どれもこれも一人暮らしには量が多い。そしてまだこれから帰宅までに何時間もあることを考えると、躊躇してしまった。

 

このあと大覚寺全殊院の日本一の千手観音とかいう所に行ったのだが、ここは龍潭寺とは対照的に、お寺は古いようだが、なんだか人集めのために新しく無理やり大きな千手観音を作ったという印象でありがたみがなく、私たちは外の休憩所でお茶を飲んで待っていた。

 

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帰り道の休憩所グリンピア牧之原で食べたお茶のアイスクリーム。お茶の濃さが1から7までの段階に分かれていて、同行の80代の方は「ガツンとお茶の味」という6を選び、私はその下の5「大人のお茶の味」(だったかな)に。ガツンでも良かったかな、と始めのうちは思ったけれど、食べ終わる頃にはやはり5で充分だった。

 

お付き合い、と思って参加したけれど、やはりもう勘弁してもらおうという気分だ。何か所も寄るので乗ったり降りたり忙しく、興味のある場所をじっくり見られない。こういう企画の方が一般的には人気があるのかも知れないが、バス会社に対して、土産物店などの方からの営業(リベートなども含めて)も激しいのだろうと思わせる、「なんで、ここに寄るの?」という場所もあった。

 

ほぼ予想していたようなバス旅行だったけれど、好天に恵まれ、ひとまず人生初の「老人会のバス旅行」というものを体験した一日になった。ちと体験が早すぎた感は否めないが、誰に言われたわけでもないのに、勝手に自分が「お付き合いせねば」と責任を感じてしまい、行かなかったらきっと気になってしまったと思うので、これで良いのだ!

 

 

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自分用に買ったみやげ。カリッカリでおいしい。

はてな」の調子が悪かったようでうまく入力できず、更新が遅くなってしまった。

 

 

ルーツが分かっても分からなくても、人は「生き方」に意味がある

家系図を書くことがブームなのだそうだ。爽風上々さんが昨日のブログで書いていらした(「今こそ家系図を作ろう」岩本卓也・八木大造著 - 爽風上々のブログ)。それで納得がいった。過日「家系図は音訳者泣かせでした」というエントリを書いたとき、妙にアクセスが増えたのだ。「音訳」という言葉にそんなに訴求力があるとは思えないし、では「家系図」というワードに惹かれての訪問か。だとすれば、それについての言及はほとんどなく、さぞガッカリさせてしまったことだろうと思ったりしていた。

 

自分自身の家系については、幼い頃父が姉たちに話していたのを聞きかじっておぼろに記憶にあるものの、とくに調べようとも家系図を作ろうとも思わないが、別れた夫、息子たちの父親は、家がらを誇りにする鎌倉時代から続く家系の二十代目だった。

 

平成の大合併で今は市になったが、私が同居していた頃は南津軽郡〇〇町だった。舅は「町にうちより古い家が一軒だけあるが、残念ながらそこは書類が残っていない」と言っていた。夫の家にはきちんとした古文書があるのだそうで、地元のNHKが取材に来て、ローカル(だと思う)のテレビ番組で放送されたこともあるという話だった。

 

夫は東京の会社で仕事に行き詰まり、勝手に辞表を出してしまって、ある日、故郷に帰ると宣言した。私は相談がなかったことには腹が立ったけれど、すでに夫の生活は荒れ気味だったのでそれで心機一転できればとも思い、また、「大家族でにぎやかに暮らすのもいいじゃない・・・」という程度のお気楽な考えで、4歳と1歳になったばかりのおさなごを連れて転居した。

 

ところが、こうした古い歴史のある家柄だったせいか、賑やかどころではなく、いまだに「家風」だの「本家、分家」だのといった言葉が日常に溢れていて、私はいったいどの時代にタイムスリップしてしまったのかと非常に戸惑った。単語一つも聞き取れない津軽弁と、髪型から服装まで「本家の長男の嫁」らしさを求められる慣習の違いなど、まさに異国に行ったほど(行ったことないけど)のカルチャーショックだった。

 

親が亡くなった時、私の父は若くて世間知らずだったため、一人息子でありながら、自分の父親の若い後妻の親戚に全財産を騙し取られてしまい、実家とは没交渉になった。その結果、大正モダンボーイであったであろう父のつくる、当時としてはまだ珍しい自由で明るい核家族という雰囲気で私は育った。学校で習う男女平等という考えと相まって、平等どころかむしろ男勝りなくらいの娘だった。舅姑にしたら、さぞや生意気な嫁だったことだろう。

 

祖父や祖母やたくさんの親類に囲まれて賑やかな子育て・・・のはずが、このような厳格な家だったからか、親戚も特別な時以外あまり近寄らず、舅姑も好んで孫に手を出すという人たちではなかったため、近所のたくさんの方たちに助けてもらって育児をしていた神奈川時代を、かえって懐かしく思うくらいだった。

 

舅も息子たちの父親もすでになく、90歳を過ぎた姑にもしものことがあれば、鎌倉時代からの古文書を収めた蔵も壊され処分されてしまうのではないだろうか。鎌倉からの古文書とあれば、個人のものとしての価値はともかく、資料として価値があるのではないか。義妹か親戚の誰かが保存してくれればよいのだけれど。

 

 

婚家を出、津軽の地は離れてしまったが、そのままの姓を名乗っているので途絶えた訳ではなく、いちおう二十一代目に繋がっている。さらに、十六歳の孫は男の子なので二十二代目まで繫がってはいる。けれども、それにどれほどの価値があるか。現在生きている人は、必ずどこかから繋がって今に至っているのだ。突然降ってわく人間はいないのだから、そう考えれば誰もが何十代目どころか何百代、何千代・・・。

 

家系図で祖先を知り、おのれの命の価値を知り、次代につなぐ自分の人生を大切に思うというのならいいが、舅も姑も、旧家の人間であることに価値を見出している人たちだった。人は親を選べない。どんな家系に生まれても、それはその人の手柄でもなければ責任でもない。人の価値は、その人自身がどんな努力をしどんな考え方をしどんな生き方をするか、それが全てだと思う。

 

家系図があり、なければ書きなどして、立派であれば家柄を誇りに思うのも良いけれど、それを当てにしたり、それにとらわれたりするのは、間違いの始まりのような気がする。なまじ、誇るほどではないもののほうが幸いかもしれない。

 

 

 

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土曜日なら欠席だったが、雨で一日延びたおかげで、昨日は地元の中学校の体育祭に出かけられた。これは一緒に勉強しているNちゃんのクラスの長縄跳び。組体操とかダンスとか、危険なものや長い練習期間を要する種目は一切なく、ちょっと「ユルイ」穏やかな体育祭だった。

 

 

快調な滑り出し、黒木華さんの『みをつくし料理帖』と雨のピクニック

楽しみにしていたドラマ『みをつくし料理帖』が始まった。正体不明の武士小松原に「下がり眉」と呼ばれるヒロイン澪を演じるのは、これ以上ないというほどの適役黒木華さんだ。黒木さんは下がり眉のイメージがあって、そうしてとっても可愛い女優さんだ。以前民放でドラマ化されたときは澪を北川景子さんが演じて、これはこれで良かったけれど、北川さんではあまりに澪のイメージは違い過ぎた。

 

そして、数少ない武士の登場人物である小松原様を演じるのが森山未來さんで、この役には少し若すぎるが、魅力的な俳優さんなので今後に期待する。その他のキャストについても、初回の今日はほぼ満足だった。

 

小説の方は澪の子供時代から始まってみなしごになったいきさつなどを描くが、ドラマはその澪を引き取って育てていた大阪の料理屋「天満一兆庵」の店主夫妻が、もらい火で店を焼失してしまい、澪をともなって、江戸の店をやっているはずの息子を頼って上京したところからスタートした。

 

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10巻シリーズの小説を、40分弱の枠で連続8回ということで、物語のどの程度まで描いてくれるのか気にかかる。まさか8回で一旦終わってまたシリーズが始まる、『精霊の守り人』(馴染めなくて脱落してしまったが)みたいな展開ってことは期待できないだろうか。

 

ドラマの最後に、現代のピカピカキッチンでドラマの扮装の黒木さんがその回に登場した料理を作って見せるコーナーも、巻末にレシピを載せている原作の趣向を生かした工夫で、面白かった。

 

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以前NHKにはたしか「土曜時代劇」という枠があって、まだあまり売れていない若手を主役に据えた良いドラマがあったのだけれど、何年か前に消えてしまい残念に思っていた。今度のこの『みをつくし・・・』は「土曜時代ドラマ」と銘打っているので、またしばらくは時代物が見られるようだ。

 

 

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このところちょっと元気がなかったスタンディングの”言いだしっぺ”(いえ、私も、だったのですが)が、「エネルギーチャージできるようなことを」というのでピクニックを企画した。それが今日だった。

 

天気予報では今週の始めから雨の予報になっていたが、しばしばずれることもあるし・・・と淡い期待を抱いていた。しかしそれはもう、少しばかり昔のことで、近頃の天気予報は実によく当たる。

 

で、念のためにと確保しておいた、室内の施設での「ピクニック」とあいなった。お握りと飲み物は各自。予約しておいたコロッケと餃子を受け取りに行って、ホカホカをおかずに。気の利く方が浅漬けといぶりがっこ(ご実家が秋田)を持って来てくださり、充実のお昼になった。コーヒーゼリーやヨーグルトなどのデザート付き!

 

輪投げを企画してくれたメンバーがいて、計画段階では”言いだしっぺ”や私は「ええっ輪投げ?ダラダラするだけでいいよ~」という気分だったのだが、いざ始めたらけっこう燃えてしまった。

 

輪投げの的の中には最高30万円が当たるというスクラッチカードが5点ほどあって、私も手に入れ、当たったらみんなで楽しく飲み会だ!と思ったのだがくじ運の悪い私はもちろんはずれ。他のメンバーに期待したけれども、残念ながら全員はずれだった。

【訂正:200円当たった人はいたらしい】

 

他のイベントと重なったことやあいにくの天候だったこともあり参加者は少なかったけれど、たあいないゲームにみんなで興じて大笑いし、良いリフレッシュができた。

日本文化紹介「折り紙の小箱」

自己都合とゴールデンウイークで休みが続いたため、半月ぶりの国際協力コスモス会。今日のテーマは折り紙。メンバーの一人が指導してくれて、こんなきれいな小箱を作った(ちょっと隙間が目立つのはご愛嬌)。

 

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蓋と身とそれぞれ折り紙を8枚ずつ使っている。これにキャンディーや可愛いクッキーなどを入れればちょっとお洒落な手土産に。

 

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教えてくれた方が持参した見本作品。色や模様が変わるとガラリと雰囲気が変わる。小さいサイズもとても可愛い。淡い色で作って、中には金平糖やボンボンなんてどうだろう。

 

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ベビーが泣いても、ママは目下折り紙に夢中。ちょっと待ってて・・・。手仕事は無心になれるのが心地よい。

 

夕方はまた駅前スタンディングに。火曜日と同じ20人ほどが集まった。今日も市民活動家然としないで、「ごく普通の60代の女性」として参加するためオープントウのパンプスなんぞを履いて行ったら、帰りには靴擦れの痛みをこらえて歩く羽目になってしまった。勤めていた頃は問題なく履けていた靴なのに、スニーカーやらビルケンやらですっかりラクを覚えてしまった足は、パンプスなんて勘弁して!と抗議しているようだ。

 

 

 

武田花さんの猫写真集『猫・陽のあたる場所』

武田花さんは武田泰淳・百合子ご夫妻のお嬢さん。お嬢さんと言っても私と同じ1951年生まれなので、はや前期高齢者に入れられるお年であるが。まあ、何歳になろうとお嬢さんはお嬢さんである。

 

『猫・陽のあたる場所』は、その花さんがまだ三十代の頃に出版された写真集だ。私が猫が好きだということを知った友人が、貸してくれた。

 

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私が二十余年付き合ったうちの猫たちとは、かなり面構えの違う被写体たちだ。モデルは全部野良猫。猫ブームのようで、ちまたに仔猫・美猫のかわいらしげな写真集は数多あるが、そうしたものとは一線を画す。岩合さんの猫ともまた、違う。

 

とにかく、みんなひと癖ありそうな面構えの猫たちだ。そしてそれ以上にこの写真集を特徴づけているのは、モノクロームであることと、背景だろう。猫たちに負けず劣らず、ひと癖もふた癖もあって存在感を放つ景色の中に猫がいる。目を凝らさねば、主役であるはずの猫が見当たらない写真もある。

 

それらの多くはごみごみとした下町風景である。営業しているのか閉めてしまったのか、判別つかないような場末の飲み屋もある。古い民家の、下着の干された二階の物干しもある。

 

なんだか胸の奥がキューっとするような、懐かしい風景ばかりだ。あとがきに、それらの撮影場所は今はもうほとんどない、と書かれている。30年前に出版された時点で、すでに失われた風景なのだ。

 

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世の中の雰囲気はどんどん昔帰りして行っているようなのに、人間の使う道具はかつてのSF小説にすら登場しなかったようなハイテク機器になり、人々の暮らす場所はどこまでも明るくピカピカなものになっていく。

 

その狭間で、戦争や教育勅語の時代はまっぴらだけれど、かと言って技術の進歩と歩調を合わせることもできない私は、想像もできない二十年後、三十年後を憂えてオロオロするばかりだ。

 

 

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昨日、じっとしていられない仲間が集まって、駅前緊急行動を実施。22人の参加。

 

 

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思っていたより参加者が多かったので、チラシ350枚配布。署名活動もできた。

 

 

歴史上の人物に魅力的な肉付け『書楼弔堂 炎昼』京極夏彦著

この作品はシリーズ物で、この前に『破曉』という作品があるらしい。ならば、このあと夜を副題にした第三巻が出るのだろうが、『破曉』から『炎昼』まで3年間あるので、次巻の出版は2019年あたりになるのだろうか。

 

実は私は先の作品を読んでいないのだけれど、本作を読み進めるにあたってなんら問題はなかった。ただ、この作品が面白かったので、ぜひ『破曉』も読もうと思う。

 

舞台は不可思議な弔(とむらい)堂という名の本屋である。「楼」と謳っているように、まるで櫓のような陸燈台のようなひょろっと高い建物らしい。そんな変わった建物ならば非常に目立ちそうなものだが、今作通してのヒロインである塔子は、たびたびその店を見落としてしまう。周囲の風景に馴染み過ぎているためというのだけれど、なにかこの世の実在の店ではなく、空間のゆがみから入り込んだ異次元の場所なのではないかと感じさせる。

 

その不思議な本屋には、さらにまた興味を掻き立てる店主と丁稚がいる。元薩摩藩士の厳格な祖父から「女は学問など不要、本も読むべからず」と躾けられている塔子だけれど、ひょんなことからその弔堂を知り、本を読む楽しさを知り、折にふれ出かけていくようになる。

 

そして訪れるたび、そこでさまざまな悩みを抱えている客人と出くわす。行く道の途中で出会い、塔子自身が案内していくこともある。その客人たちは、現代の私たちなら誰もが知っているような歴史上の人物なのだ。物語の登場時にはいまだ無名の人もいれば、すでに国家に大きな影響を与えうる立場の人もいる。読み進むうち、あ、これはきっとあの人のこと・・・と推測のつく人物もある。登場して瞬時に分かるような人もいる。

 

それらの歴史上の人物の描き方がとても魅力的だ。とりわけ「変節」に登場する十二、三歳のハルさんという聡明でハキハキした少女と、「無常」に出てくる優柔不断でやたらとやっかいなことから逃げたがる老人(じつはそれほど老人でもないのだが)「なきと」氏が印象深い。

 

店主、丁稚、塔子とともに、もう一人の全編通しての登場人物である東京帝大生の松岡という人物も、物語の最後で「ああ、この人だったか」となる。

 

物語の時代は徳川の瓦解から20年ほどのころとなっているが、店主と客人が語る政治状況や社会状況が、今のことを言っているのか?と感じてしまうようなところもある。相手の悩みや問いかけに応じる、還俗して「書物の菩提を弔っている」という店主の恐ろしいまでに鋭い洞察や理論も、心に深く響く。

 

500ページを超える長編であるけれど、面白くてあっという間に読了してしまった。章ごとに牧野富太郎氏の植物の絵があしらわれた、菊池信義氏の美しい装丁も魅力的な本である。

 

 

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