よんばば つれづれ

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民意を尊重すると言いながら・・・

いまや数少ない骨のある報道番組TBS『報道特集』。今日は沖縄高江と広島原爆記念日を取り上げていた。高江の様子を多くの本土の人が見てくれているといいのだけれど、すでに関心を持っている人ばかりが見て、何も知らない人は、そもそもこういう報道番組は見ない確率が高いのだろう。残念なことだけれど。

 

「何かせずにはいられなかった」と、大阪から駆けつけていた女性がインタビューに答えていた。何もできずにいる自分と引き比べ、頭が下がる。何度見ても、大勢の機動隊というプロ集団が、無抵抗の住民を強制的に排除する様子には心からの憤りを覚える。これが本当に現代の法治国家の姿だろうか。

 

都合のいい場面では「民意を尊重」と言い、沖縄の民意は何年も何十年も無視され続ける・・・。しかし、今日の『報道特集』で言っていたとおり、政府の「いじめ」の背景には、黙殺する傍観者ー本土のわれわれーがいる。キャスターは言っていた。傍観者が一番問題なのだと。

 

やんばるの生きものの研究者は言っていた。「ハワイでは生態系に影響があるからとオスプレイの飛行を停止した。自然界への影響は沖縄だって同じなのに、沖縄では止まらない。日本が自然の価値評価の低い国だからです」と。さらに言えば、沖縄の評価はさらにその何割引かだからだろう。

 

 

そして広島。70年の節目だった去年に比べ、オリンピックもあって、案じていたとおり、今年は戦争関係の特番は非常に少ない。そうした中でも、この番組はきちんと広島を伝えている。原爆を投下されてから、わずか4時間後には広島駅から列車を運行させていた事実を伝えていた。

 

あの惨状の中で復旧させた関係者の努力たるやいかばかりだったかと思う。人々を少しでも救いたい一心で頑張ったのだろうが、そのためにかえって二次被害を増やしてしまったという悲しい事実もあった。

 

原爆資料館で被災者の着ていたベビードレスを見学していた女子中学生たちの前に、「そのワンピース、私が着ていたの」と現在72歳の女性が現れた時の少女たちの驚き。「原爆」も「被災した衣服」も、しょせん歴史の中のリアル感のない知識に過ぎなかったものが、俄然現実味を帯びる。

 

実際に体験した方々の言葉の重み。これはどうあらがっても、時間とともに消えていく。それを今後どう絵空事にしないように伝えていくか、最先端テクノロジーも利用しながら工夫する努力が急がれる。

 

それにしても、地球の裏側で開催されているリオオリンピックでこのかしましさ。4年後の東京の時にはどんなことになるのかと思うと、騒がしい期間中は日本脱出したいものだとさえ思えてくる。

 

ストイックに自身の鍛錬に励んできたアスリートの方々には、オリンピックという大舞台が大切なことは分かるが、この欲に目のくらんだ世間のカラ騒ぎをどう見ているのだろう。どんな競技にしろ一流になるにはお金がかかるので、客寄せパンダにされようが何だろうが、儲かる方向なら構わないのだろうか。

 

大きな流れができてしまうと、せせらぎの声はかき消されたり、声を上げること自体「空気を読まない!」と叱咤されてしまうクニである。

 

(おかしな人たちが大挙してくると嫌なので改題しました)

 

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お隣さんのいかにも「夏休み!」なドア

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ありそうな近未来に鳥肌『プラチナデータ』東野圭吾著【追記アリ】

少し前に嵐の二宮君主演で映画化されたようなので、ストーリーはご存知の方が多いかもしれない。テーマは国民のDNAをすべて登録してデータベース化し、犯罪捜査に使うというものだ。

 

単に現場に残された証拠物件と容疑者とのDNAを分析するのではなく、登録されたデータから血縁など容疑者に近いものを見つけ出し、身長体重はもちろん、モンタージュまで作ってしまうというものだ。

 

そして、その研究の中枢にいた主人公が、あろうことか、自分が分析していた事件の容疑者として、コンピューターに自分そっくりのモンタージュを提示され、身の潔白を示すため巨大な敵と戦うことになってしまう・・・。

 

 

小説も読んでいないし映画も見ていないはずなのに、常に既視感のようなものを感じながらの読書だった。テレビの刑事ものドラマで、似たような筋立てのものがあったように思う。

 

東野作品としては決して良いできとは思えないけれど、読んでいる間はハリウッドのジェットコースター映画のごとくグングン惹きつける。そこはやはり手練れの作品だ。夜更かしをして一気に読んでしまった。

 

展開はかなり予想がついてしまうのだけれど、なんといっても全国民のDNAを登録してしまおうとする権力側の勝手な計画の恐ろしさと、そのための手段などが、いま現実に進んでいる事態とシンクロして、近い将来に、いかにもありそうなリアルさで迫ってくる。

 

そして、万が一にも権力者の一族が犯罪者として暴かれるようなことがあってはならないため、「プラチナデータ」として特別に守られるシステムが秘密裏に構築される。主人公の「どのレベルの人間なら『プラチナデータ』に入れるんですか」という問いに、権力側の人間はサラリと言う。「政治家なら閣僚経験者かそれに準ずるクラス。役人の場合は、最低でも幹部候補生。コネクションの有無によっても・・・」そして、「警察なら?」の問いに、「キャリアであることが絶対条件」と。

 

 

DNA登録をより円滑に進めるため、国会で新しい法案を通すという言葉に対し、相手が「国が個人のDNA情報を管理するなんてことを、国民が許すはずがない」と反論する。それに対する答えは、

 

「国民が許さない?国民に何ができるわけですか?デモをしようが、演説をしようが、政治家たちは自分たちの通したい法案を着々と通していく。これまでずっとそうだったでしょ。国民の反対なんか関係ない。それに国民だって、どんなに無茶な法案を通されようが、怒っているのは最初だけで、すぐにその状況に慣れていく。今度も同じことです。最終的にはDNAを管理されるのも悪くないと皆が思うようになる」

 

なんとリアル!今まで私たち日本人はまさにこの通りだった。だから官房長官に「どうせ国民など、すぐに忘れる」と言い放たれてしまったのだ。

 

「いつの世にも身分というものは存在する。人間が平等だなんてことはあり得ないんだ」と、最終的に登場人物の個人的解決は図られても、国民の個人情報が丸裸にされるいっぽうで、VIPたちのプラチナデータはどこまでも守られていくという、国家レベルの企みは機密というベールに隠されて暴かれることもなく終わる。

 

6年も前の作品だけれど、今の政治状況と重なって、肌が泡立つような薄気味悪さを感じる物語だった。

 

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 浅間、穂高、志賀、那須、蓼科、水上、富山、

【追記】 

今日は夕方からスタンディングの会議があったため、ブログをアップしてすぐ出かけ、会議のあとママの会の仲間が少し相談があるというので、二人で喫茶店に行って話し込み、11時頃帰ってきた。洗顔や歯磨きを済ませて寝床に行って、何となくスマホでブログをチェックしてやっと置き去りにした文字を見つけ、冷や汗をかいてしまった。慌てて起き出して追記を書いている。

 

これらの文字は何かというと、この物語の登場人物の名前である。なぜか地名、それも信州とか高原とか、特定のイメージに関連したものが多くて、それに何か意味があるのだろうかと思ってしまったが、特別に意味を持たせたわけでもなかったようだ。なんだか、思わせぶりなネーミング。そして思わせぶり、のつもりもなく、入力して放置してしまった私・・・。

すみませんでした。

小池さん、緑はおイヤだったのね

選挙期間中、「およそ緑が似合わない」と評されていた小池さん、ご本人もよく分かっていらしてきっと内心はさぞ不本意だったことだろう。当選会見では早速オフホワイトのスーツをお召しだった。選挙期間中のストーリーからいけば、ここは当然、緑を身に付けて支援者と喜びを分かち合う所だろう。

 

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それなのに、「当選」と決まった途端、脚本の流れなど無視して、思わず緑の衣装を脱いでしまったところに彼女の本心が見事に表れた。「ちょろいもんね・・・」と後ろを向いて舌でも出していそうな勢いだ(と、私には感じられた)。

 

「街頭演説には何か緑のものを身に付けるなり持つなりして」というのは、大衆に物語への参加意識を感じさせるしかけだ。実によく考えられている。

 

 

改造内閣の顔ぶれについて、早速「民進党が酷評」とニュースが伝えているが、民進党を始めとする野党は、もっと小池陣営の戦いぶりなどから学んだほうが良い。その昔は権力と闘う勇ましいスローガンやシュプレヒコールが効果的だったのかも知れないが、「優しさ」が尊重される現代(現実の社会は反対に弱肉強食、すこぶる獰猛な時代になっているのだけれど)、否定的な言い方はかえって反発を招きやすいことを知るべきだと思う。

 

小池氏は実際には先制攻撃だと思うけれど決して攻撃的な言い方をせず、ひたすら自分は権力にはねつけられた、集団からはじかれた、可哀想な悲劇のヒロインを演出した。体面やら根回しやら威厳やらといったものを重んじるオジサマがたが、すんなり認める訳にいかない手段をあえて選択しておいて、「崖から飛び降りる」とのたもうた。

 

脇役のオジサマがたは、まんまと予想通りの反応をしてゆり子姫の思うつぼ。途中表舞台とはしばらくご無沙汰の、元主役のオジ(イ)サマのアドリブ発言がさらに観客の多くを占めるオバサマがたの感情を逆なでし、いっそうゆり子姫応援団の結束を堅くするという、脚本家の計算しないおまけまでついた。

 

 

内閣の方は稲田朋美氏が防衛大臣という怖ろしいことになった。はてさて、これからどんなおどろおどろしい場面が始まるのだろう。そして対抗する側は、大向こうの喝采を得られるような芝居をして、凶悪な敵を倒すことができるのだろうか・・・。

 

 

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ご近所さんにスイカをいただきました。結構大きなスイカの半分。

ひとりじめ、です。

やっぱりどうしても触れなきゃね、「ねぷた」!と作戦の重要さ

津軽に15年暮らしたものとして、やっぱりこの時期はどうしても触れなければ・・・。

 

昨日から弘前ねぷた開幕です!(今日からは青森ねぶたも)

 

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弘前ねぷたのポスター

 

 

以前にも書きましたが、青森は「ねぶた」(BU)で、弘前は「ねぷた」(PU)です。

 

よその人たちにしたら、どっちでもいいことでしょうけれど。

 

いま、この時間、何十台もの大型ねぷた弘前のメインストリート土手町を練り歩いているのかと思うと、もうワクワクしてしまいます。

 

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連なるねぷた

 

 

実は昨日、夜7時のNHKのニュースで目にするまで忘れていたのです。ねぷたの初日だということを。ほぼ予想はしていましたが、あまりの大差で負けた都知事選の結果に、単純な私はまた落胆していました。

 

小池陣営の作戦の勝利ですね。大衆の票は政策や人物よりムードです。どんなストーリーを創りだすか、です。今回の小池候補の用意した脚本は、敵ながら実によくできていたと思います。途中で元知事が塩まで送ってしまう、アドリブサービスの一場まで付いてしまいました。運と云うのは強い方にさらに味方してしまうのでしょうか。

 

この都知事選のなりゆきを眺めていても、いかに作戦が重要かということをしみじみ感じました。いくら高邁な理想があろうと、伝え方を間違えては相手に届きません。逆に大衆の心理をうまくつかめば、ハーメルンの笛吹男のように、たとえその先に命を奪う大海が待っていても、難なく従えていくことができるようです。

 

 

長い年月着々と準備を進めて来た日本会議、マスコミを味方につけ、有力な広告代理店などを使って大衆の心理を読んで手を打ってくる政権。こうしたものに対抗するのに、こちら側は徒手空拳の上、あまりにも正直で旧態依然で工夫がなさ過ぎました。

 

SEALDsの若者たちが新しい風を吹き込んでくれましたが、充分な暇があって活動の中核をなす年配者たちの意識はなかなか切り替わりません。豊橋スタンディングも、目下気付いた人たちがいろいろ考え中。5日にまた集まりがあり、思いを持ち寄ります。

 

とにかく「落ち込んでいる暇などない!」ことだけは確かです。

 

 

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思いを盛り上げる、物語を紡ぎ出す・・・。

人生七十古来稀なり

高齢化社会の到来で、今どき七十といっても、自分が年寄りだとすら思っていない方も珍しくないのかも知れない。古稀などと言いながら、いまや70歳などザクザクいる時代だ。

 

けれども、近頃私はしきりとこの言葉を意識する。生物としての「ヒト」としては、やはりこの言葉のように六十数年くらいが適当な寿命なのではあるまいか。65歳の私などそろそろお迎えの来る頃合いである。

 

私には、一番上の姉と末っ子の私の間に二人の兄がいる(下の兄が白血病で13歳でなくなってしまったことは、以前このブログに書いた)ので、姉とは11歳の年齢差がある。年は離れていても二人ともお洒落が好きなので、私が大人になってからは、寄るとさわると身に付けるものはもちろん、暮らし方や生き方を含めた「美」の話で盛り上がったものだった。

 

それが、近頃その姉から電話があると体や健康の話ばかりで、気が付くと1時間近くもしゃべっていたりする。少し前まで、私は駅などで年配の女性たちがいつも病気や体の不調の話ばかりしているのを、苦々しく聞いていた。そうして、自分は年をとっても決してああはなるまいと戒めていた。ああ、それなのに!である。

 

そしていつも二人して行きつく結論は、「現代は長生きし過ぎなのよね」ということである。生物としては六十数年使用するように体が設計されているのに、今はそれよりはるかに長生きするため、いろいろと不都合が出てくるのだ。

 

世はなべて不老長寿指向のようだけれど、私も姉も(たぶん二人とも病気らしい病気もしたことがないし、母に似て長命を運命づけられてはいるのだろうけれど)できることならあまり老いさらばえた姿をさらさずに、人生にGood byeしたいのだ。安楽死が法的に認められたらいいのにくらいに思っている。

 

生き方は選べても、現在のところ死に方は選べない。けれども、あまりいつまでも年寄りが出しゃばっていないで、せめてある程度の年齢になったら後進に道を譲り、黒子になったらどうかと思う。今の世のなか、日本は政界も財界も、権力を握る人たちの平均年齢が高過ぎだ。

 

年金支給年齢の引き上げもあって、これからますます働く人の年齢は高齢化していくのだろう。医療の進歩やアンチエイジング技術の発達で、昔より肉体年齢の若返りもあるかも知れない。けれども、案外変えられないのが意識だ。

 

昨日のエントリでも触れたけれど、いろいろな場面で、若い世代の意識の柔軟さや古い価値観にとらわれない発想に感心することが多い。こればかりは、金と暇にあかせてトレーニングジムに通おうが、どんなにサプリメントを飲もうが、手にすることのできないものだ。

 

いよいよ明日投票日となった東京都知事選だけれど、たとえばこれを立候補年齢60歳未満とすれば、主要三候補はもちろん、21人という史上最多の候補者が、一気に半減してしまう。国会議員にしても、おそらく似たようなことになるだろう。経験が重要なこともあるだろうが、それは黒子の先輩方がブレーンに参加してサポートすれば良いことだ。

 

 

一時期、産業の「重厚長大」が時代遅れと言われたが、私には、今や人材の重厚長大が社会に悪影響を及ぼしているように思う。重要な役職を歴任してきた高齢の方々、いい加減ちょっと身を引いて、若い世代の応援団、サポート役になったほうが渋くて格好いいと思うのですが・・・。

 

 

1960年代、私のティーンエイジャー時代は、まさに「人生七十古来稀なり」だったのだ。

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http://www.garbagenews.net/archives/1940398.html のサイトより

 

 

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私が小さかった頃、お医者さんに行くのは贅沢だった。たいていの家庭で、風邪やちょっとした病気は、こうした置き薬で対処していた。

 

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定期的に回ってくる「越中富山の薬売り」のおじさんがくれる紙風船が楽しみだった。

 

(写真は2枚ともネットからお借りしました)

人生が楽しくなる!『住み開き』アサダワタル著

自宅の一部を、カフェやギャラリー、イベントスペースなどとして地域に開く提案と、各地の実践例を紹介した本。著者は1979年生まれの「日常編集家」という不思議な肩書の若者だ。

 

駅前のスタンディングや集会&パレードなどの今までの活動に限界を感じて、次のステップとして、不特定多数を対象にしてきた今までとは対照的に、自分の家で小規模な集まりを持って、社会の様々なことを話し合う場を作りたいと考えている。フェイスブックで、8月に企画した第一回の企画を告知したら、スタンディングの”言いだしっぺ”からこの本の紹介がアップされた。参考になりそうだから初回開催の前に読んでおこうと思い、貸してもらった。

 

自宅を開く形も呼びかける対象もさまざまな「住み開き」の事例が、「東京編」11「大阪編」14「各地編」6と、著者の「住み開き原体験」も合わせて、合計32例が紹介されている。

 

初めての子育てと仕事とのジレンマの中から「ママさん自宅サロン」を始めた例もあれば、定年になって地域と繋がりたいと「住み開き」を始めた例もある。商売が時代に合わなくなったため、その店舗の空間をギャラリーにしたり、カラオケボックスを改装してシェアハウスにし、さらにシェアオフィスをプラスして、そこでの多彩な人間関係を仕事に生かしている例もある。

 

私の計画に一番参考になると思ったのは、大阪府堺市泉北ニュータウンの「グループ・スコーレ」だ。自宅で長年学習塾をしてきた主婦が、50歳になったのを機に、少しゆっくりして趣味のシャンソンや高齢化する地域のために時間を使いたいと考えたのがきっかけだったそうだ。

 

当初10人のメンバーが、それぞれ自分の得意なことを教え合う形でスタートした「住み開き」型の教室が、いまやシニア世代を中心に270人ほどに膨れ上がり、約30人が自宅を開放して、時にリーダーとして、時に生徒として、お互いの家を行き来しているそうだ。

 

私がしようとしているのは、まだテーマもはっきりしていない。遠回りにはなるが、政治を前面に出さず気楽なものにして、雑談のようなところから、参加者の興味や関心をさぐり、徐々に形ができていけばいいなと思っている。

 

狭い我が家で集められる人数は知れたものだけれど、ここを経験した人がどんどんあちこちで自宅を開いて行ってくれて、ネズミ算的に広がっていくことを願っている。そうして身近な人同士で生活の中の問題を話し合い、考え、解決していく文化が育ったらそんな嬉しいことはない。

 

立憲政治の回復とか緊急事態条項や改憲是非の国民投票といった目の前の課題の解決には間に合わないだろうが、遠回りでも、気長に何十年かのちに花が咲いたり、実がなったリするよう、せいぜい耕したり種を蒔いたりしようと思う。

 

 

それにしてもこの本、自宅に人を集めることのノウハウを学ぶつもりで読み始めたのだけれど、著者やその周辺の若い人たちの考え方や価値観に驚かされ、刺激を受け、この人たちが社会を動かす世代になれば、なんだか大きく世の中も変わりそうな希望を感じることができた。

 

中部地方にいる私は5年前のあの大震災もあまりリアルな被害はなかったが、東京では大量の帰宅困難者が出たり、停電などもあって、もちろん被災地とは規模は違うが、それでもかなり深刻な状況だったようだ。そうした中、以前から住まいをシェアしたり、地方から来た人や海外から来た人などを柔軟に受け入れていた人々は、自宅を開くことに何ら抵抗がなく、インターネットで情報をやり取りして、東北の被災者を受け入れたり、逆に関東から関西のそうした人々の元に身軽に避難して行ったりしたという。

 

事例紹介の後に、著者と様々な分野の人との対談が収録されていて、その話の中にも非常に発見がたくさんあった。

 

高齢化社会の到来で、「一人の若者が三人の高齢者を支える」ようになるなどと言うが、「いやいや、三人の高齢者が一人の若者を支えればいい」という逆転の発想には笑ってしまう。実際、フランスでは家族がいなくなって広すぎる家に一人で住む高齢者の元に、若者が安く居候して助け合って暮らす形が人気を呼んでいるという。

 

今の日本の行政だと、高齢者福祉の政策と空き家ストック活用的都市計画政策、若者雇用の政策といったように、二重三重の縦割りになって税金が下りてくるが、根本から見直せばもっと自然に解決できる、と言っていることなども注目していいと思う。

 

著者がもともと音楽を中心とする「表現者」である関係から、周囲にも比較的融通の利くクリエイティブな仕事の人が多いせいもあるのだろうが、じつに身軽に移動したり移動する人を受け入れたり、従来の型に制約されない生き方をしている人が多い。収入が少ない時も、安定している人がカバーするような暮らしぶりで、うんとお金持ちも出ないかも知れないけれど、多くの人がこんな風に「やわらかに」生きられたら、今の時代の息苦しさは随分緩和できるのではないかと思った。

 

高円寺でリサイクルショップ「素人の乱」を経営し、2011年からは「原発やめろデモ」をしているという松本さんという方が考えているという、「生活や仕事を乗せて日本中をグルグル回るバス」というのも、漫画のようにお気楽で奇想天外な発想だけれど、全く実現不可能でもないような気もするし、なんといっても、こんなことを考えていると人生面白くって、引きこもったり暗くなったりしてる暇はない!という気分になってくるところが断然いい!

 

「地」にも「血」にもこだわらず、まして金にも権力にも媚びない、身軽で自由な若者たち。土地を所有するという意識が希薄なことは、国という意識にも縛られないことにつながる。「愛国心」好きの今の世の中の支配者たちにはとんでもないことだろうが、もともと地球には国境の線も存在せず、まして個人が土地の所有を主張するなど笑止なこと。

 

彼らの世代が、やわらかな平和な地球を作ってくれることを夢見たい。と、久々に明るい気持ちになる本だった。

 

 

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アンドリュー・ワイエス展「海からの風」

受講のためにNHK文化センターに出かけたので、隣の豊橋公園内にある美術博物館で開催中の「アンドリュー・ワイエス水彩・素描展」を見てきた。

 

今回の出品作は丸沼芸術の森所蔵のものということで、代表作「クリスティーナの世界」などは習作のみで、本作品は写真しかない。「海からの風」も何点かの習作のみだったが、非常に心惹かれた。ぜひ完成作品を実物で観たいものだと思った。

 

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ネットからお借りした「海からの風」。実物はさぞかし素敵だろうなと思う。

 

ワイエスはとても体が弱くてまともに学校にも通えず、家庭教師から勉強を学び、絵については有名な挿絵画家だった父親から習ったそうだ。限られた狭い世界の中で生きたのだろうと思われるが、今回の作品展を見て、つくづく身のまわりのどんなものも描く対象になり得るのだと思った。要は描き手次第だ。クリスティーナの弟アルヴァロが農作業に使う、ブルーベリーを入れる桶やら手作りの一輪車など、何でもない農具さえもモチーフだ。

 

91歳まで描き続けたたくさんの絵のうちのかなりが、このクリスティーナとアルヴァロの姉弟が暮らす「オルソン・ハウス」を題材にしている。その家で暮らしていたオルソン姉弟も、きっと生涯のほとんどをその家の周囲数マイルというような、狭い世界で生きた人たちではないかと思う。

 

けれども、その絵に描かれた姉弟の世界は、なんとも豊かで静かで満ち足りていて、現代の私たちが失ってしまったものがあふれている。実際には決して裕福ではない暮らしだったのだろうし、ワイエスの絵も、クリスティーナが愛しいつも咲かせていたという花さえもあまり画面に描き込まず、地味でどちらかと言えば暗い色が多いのだけれど、画面から受ける印象は決して暗くない。おそらく清く貧しく生きる姉弟も満たされていたのだろうし、それを見つめる画家の目も温かい思いに溢れていたからだろう。

 

えむこさん(id:emukobb)がいらした日はおしゃべりなグループがいてちょっと集中できなかったそうだけれど、今日は幸い会場もすいていたし静かで、とても気持ちよく鑑賞することができた。ただ、今年は市制110周年ということで予算が付いたのか、豊橋市美術博物館は今改装工事たけなわで、いつもなら公園の門を入ってから緑豊かな通路をたどって美術館の玄関につくのだが、工事の柵が張り巡らされていて雰囲気は台無し。併設の喫茶もまだ改装工事中。工事終了後を楽しみに待つとしよう。

 

 

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今日も届いた採れたて野菜。キュウリなんてしおれた花びらがまだしっかりついている。